りりり 後編

「ちょっと、夏休みだからっていつまで寝てるつもりよ!もう昼になるよ!」階下から母に怒鳴られりりは渋々起き上がり階段を下りた。
「おはよお」
こちらに背を向けて食器を洗っている母に声を掛ける。
「おはようじゃあないでしょ。いい加減にしなさい」
「はいはい」
「本当にあんたは――あ、今日から月ちゃん泊まりに来るから」
「え?なんで?」
「今日から夏休みだって聞いたからね。せっかくりりもいることだし、うちにおいでって言ってたの前から」
「まだ、危ないみたい?」

「まだまだだよ」
水道を止め、手を拭きながら母は答えた。振り返らずに。

 

兄が死んだのはちょうど今頃だった。

顔を見るなり月は、変態年の差カップルの続き書いた?と聞いて来た。話したとこしか書いてないと言うと「あっそ」と軽く答えて本棚を物色し始める。
「青春ものの方ならところどころ書いたよ」
「ところどころねえ。それ、きっとまた未完に終わるよ」
失礼な予言をして床に座り壁にもたれる。りりは膨れたが、脱いだんだよな確か、と言う言葉を聞くと途端に相好を崩した。憶えていてくれたことが嬉しくてしょうがない。りりの書いたつまらない話を月はいつも嫌がらず読んで、聞いてくれる。初めは特別扱いされてる様で嬉しかったが、礼を言うと「慣れてるから」と返されて少し落ち込んだ。
「綺麗で血だらけで怖い話」は意図して書かないようにしている。

「で、目出度く二人は結ばれます」
「さらっと流したな」
「三行空けね。いや詳しく追ってもいいよお。『あっ!ダメ…そこやだっ』『そんなこと言ったって、ほらここがもうこんなに…』『やぁ、恥ずかしいよぉ』『可愛いねユタカは』『いじわるぅ』と、こんな感じか?」
「うわ、キモい……普段読んでるものが窺えるな。一気にレベルが落ちた気がする」
「はは、だから三行空けて朝なんだってば。まあ、どうしてもって言うんなら、普段使わんような漢字並べたり、さらに組み合わせてやらし気な単語でっち上げたり、もしくは擬音が多いせいで妙に平仮名が多い文章使ってもいいけど」
「いらねえよ。」
「んじゃ、続き。ところがユタカはそれを忘れてしまう」
「なんで」
「いろいろあって。ユタカの精神は彼と結ばれたことを受け入れられない。ボタン外したときに拒絶されたと思い込む」
「……ややこしい奴だな」
「その通り。そして自分に惚れてる先輩に泣きつく。ついでに抱きつく」
「先輩おいしいね」
「そう、おいしい。でもそれだけじゃあない。頭脳明晰眉目秀麗スポーツ万能人望も厚く家柄も良いっ、と条件揃いまくった恐ろしい男なのだよこいつは」
「へえ、そんなのがユタカに惚れてんの」
「ベタ惚れ。ユタカも知ってるから始末が悪い。」
ベタ惚れって、そりゃありりのことだろう。ノートを渡すとき一瞬指先が触れただけでこんなに心拍数が上がるんだから。滑稽だ。最高だ。まるで純情少女だ。可憐な乙女だ。本当に、始末が悪い。

――『どうしたんだ明かりも点けないで』
後ろから声を掛けられ僕は慌てて頬を拭った。
『泣いてたのか』
『橋本と何かあったのか』
『ち、違っ』
『何だ、振られたのか?』先輩は僕を優しく引き寄せた。黙って背中を撫でてくれる。
『先輩…』僕は、その優しさに縋った。
――僕は狡い。僕は先輩が僕に関心を、好意と云っても良い感情を抱いているのを知っている。その感情に情欲が含まれることも、彼が優しいことも。
『先輩』
その胸に縋り付き、人形のように整った顔を見上げる。今まで散々見て見ぬ振りをして来たと言うのに、僕は彼の目に浮かぶ欲望の色に安堵する。彼が僕を拒むことは無い。
僕は卑怯な人間だ。
『あいつの代わりにしてもいいよ』
『――先輩』
全てを知っていて、それでも先輩は僕を抱いてくれる。
『目を閉じて、あいつの名前を呼んで、あいつのことだけ考えてればいい』
僕は卑怯者だ。

「ホントだ、セイシュンだ。……だってこれじゃあ『貴方』が黙ってないだろ。」
「おお、激怒した橋本君は先輩に掴みかかる。そこで先輩も彼らが両思いであることを知る。棚ぼたはありえないってわけだ。」
棚ぼたはありえない。自分に言うべき言葉なのかもしれない。

「また坂下から電話が来てさあ。絶対制服着て来てくれって言うんだよお」
「いいじゃん。かっこいいと思うけど、深緑」
月は壁に吊るされた制服に目をやりながら言った。
「違うよ月くん。これはね、モミの木色って言うんだ。最初の春に嫌と言うほど聞かされた」
「ああ、三本樅の木の話?」
「そおそれ!大体おかしいよね、信仰の自由は保障されてる筈なのになんで延々と神話聞かされなきゃいけないわけ?」
「あれは神話じゃなくて建国譚」
「居たのか居ないのか良く分かんない伝説上の王様なんて神様と同じようなもんだよ」
「それも間違い。三人目までは確実に実在しない。」
「何でそんな詳しいの?」
「賞取ったでしょう『樅の木の下の骸』。兄弟ならそのくらい読めよ。」
自分で勢い良く言い放っておきながら途端に月の表情は一転する。りりは地雷を踏んだことを知る。
確かにその作品はこの国の起源にまつわる伝説を扱っていたが、切り刻まれ都合よく解釈されてほとんど創作に近いものだった。判るのは月ぐらいのものだろう。
一緒に資料を集め、取材をし、アイディアを出し合い、月と出会ってから兄の小説のほとんどは二人の共同作業で出来ていた。
そしてりりも知ってる。初めて小さな賞を獲ったあの小説は、八割がた月によって創られたことを。
「ゴメン、もう寝る」
硬い表情でそう告げて月はふらふらと階段を下りてゆく。

兄の遺稿は全てりりの手元にある。両親と共に月が持っているべきだと主張したが、「自殺を誘発する」と真顔で言いながら拒否された。
兄の小説は、兄の書いた小説は、嫌いだ。

長い黒髪、銀縁の眼鏡。白衣を翻すヒロインのモデルが誰なのか、容易に想像がつくから。

鏡を見るのは好きだ。りりの顔は間違いなく兄に似ている。
洗面所で自分の顔を見ながらにやけていたら母が気味悪そうにしていた。
そろそろ切ろうかと思案しながら前髪を吹き上げる。
気味悪げに出て行った母と入れ違いに月が歯を磨きにやってくる。
「茶色いよね。それ地毛?」
「うん。染めてる奴も結構いるけどね」
「え。いいの?規則厳しいんじゃないの?」
「結構ゆるいよ。特にウチは」
「ひいきだな」腕を組んだ月は不適切だ、不公平だと適当なことを言う。
「でもさあ、前髪そんなに長くて邪魔じゃない?」
言いながら伸ばした月の指が額に触れてきてりりは慌てて身をひく。
「普段はちゃんと上げて固めてるよ」
何が『ちゃんと』なんだ、と自問しながらりりは答える。
「げ、マジ?りりがあ?おでこ出して、それであの帽子被ってぇ?いっそのこと七三とかのが似合うんじゃないの」
「月くんこそそのぼさぼさ頭どうにかしたら。自分で切るのもやめてさあ。せっかく真っ黒、真っ直ぐなのに」
「褒め言葉に聞こえないんだよそれ」
「――昔は伸ばしてたよね腰まで」
「疲れるんだよ長いと。りりも一回伸ばしてみな」

一泊で帰ろうとした月をまたも母は強引に引き止め、結局りりが戻るまでこの家にいることを約束させた。
月の休みは終わったが、実際りりの家からの方が職場に近い。

「ねえ、好きな人に殺して欲しいって、どう言う感情だと思う?」
「吊り橋ショックを狙ってるんじゃないの。ほら、吊り橋の上でカップルが出来やすいってやつ。恐怖でどきどきしてんのを、相手を好きだからって勘違いするんだよね。確か」
「……人質が銀行強盗好きになるやつ?」
「……それはなんか違うんじゃないかな。えっと、戻すよ。人を殺す時ってさ、普通に考えたら緊張してるはずだよね、その緊張を自分への恋だと錯覚させたいんじゃないのかな」
「それで生き延びて恋人に?」
「いやそこまで行かなくてもいいんじゃない?一瞬でも好きになってもらえれば」
「ふーん。あれ、なんで片思いに限定してんの?」
「ああ、そう言えば」
「でも、ま、さすがきょうだい。同じくらいひねくれてるわ。あの人はね一言『マゾなんでしょ』ってさ」

「旧制高校青春ホモ小説はどうしたの?」
「書いてるよ、もうすぐクライマックス」
創作は嫌いじゃない。どちらかと言えば好きだ。だけどそれはあくまでもどちらかと言えばであって、本当に好きなのは月に読んでもらって、月に聞いてもらって、月に貶されて、月に矛盾を指摘されて、月に面白いと言われること。
「戦争だよ。三人は戦場に送られることになる。ユタカは運動神経もないし、要領は悪いし、生きて帰って来られるとは誰も思っていない」
「ほーう、死を覚悟して再アタックか」
「それもいいね。三人のうち誰が生き残るといいと思う?」
「三人とも死ぬ」
「ええー。それじゃあダメだよ。ユタカと先輩にするか、先輩と橋本君にするか、もしくは三人とも生き残るか」
「あれだろ、一人記憶喪失になってたりとか、死んだと思ってもう片方とくっついたりとかさせるつもりだろ?」
「そうそう、後は奥さん貰ってたりね。裏切られたユタカはさらに弱く――」
「馬鹿だな。当たり前じゃんそれは。裏切りでも何でもないよ。りり自分で青春ものって言ったでしょ?一過性なの。えーとほら擬似恋愛?なんだよ。同性しかいない寮と言う限られた空間、時間の中だけだからいいんじゃん。続けてどうする。あとは日記とか手紙とかもう一人のキャラとか出てきて隠されてた気持ちが分かって、ほろりとなって奥さんと寄り添って墓参りでしょ」

月が真剣に語る。月と話す。月に話す。月が文句を言う。なんて幸福な夏休みだ。

『貴方が好きです。
僕は、貴方のことが好きです。
好きで好きで好きで云わずにはゐられ無い。
伝へずにゐれば今迄通り傍にゐられることでせう。
貴方はこんな僕にも微笑つて呉れる。伝へずにゐればその笑顔を失うことも無く、貴方が僕から離れていくことも無いでせう。
それでも云わずにはゐられ無いのです。
 貴方の傍で過ごす時間はとてもとても幸福で、けれども同時に酷く辛いのです。

戀しくて愛しくて息が詰まりさうなのです。』

ある日不機嫌な様子で仕事から帰ってきた月はりりが飲もうとしていたイチゴ牛乳のコップを奪い取り一息に飲み干して言った。
「聞いて驚け、りり。お見合い上司は存在する」
「はい?」
「漫画だけかと思ってたらちゃんと実在するんだよ!『君は今付き合っている人なんかいるのかね?』だって」
月はぼさぼさの短い髪に手をつっこんでさらに酷くする。
「お見合い、するんだ?」
「ああーめんどくせえ。こうなったら、りり、私と結婚するか?」
コップに二杯目のイチゴ牛乳を注ぎながら月は言う。
りりはウエディングドレスの方が似合いそうだよなあ。あ、私はさあ、角隠しよりも綿帽子が好きなんだけど、りりはどう?やっぱりさ内掛けよりも白無垢のほうがいいと思わない?
いくら幸せな夏休みでもいずれ終わりがやってくる。そんなことくらい、りりだって知っている。
だからちゃんとさよならを言おうと思った。
「――結婚、は無理だわ」
「何い、俺の誘いを断るとはいい度胸じゃあねえか」
月はわざとらしく腕まくりして見せる。
月が笑う。月がふざける。月と笑う。

「お別れだよ月くん。――りりはこれから幼い頃に亡くなった父を彷彿とさせる老人と二人っきりで暮らし、将棋を教わりながら恋に落ちてくんだ。楽しそうでしょ」
「何言ってんの。りりちゃんの親父さんまだ生きてんじゃん」
「『野ばら』だよ『野ばら』。昔クラスメートがそんなパロディ読ませてくれた。あいつ老け専だったのかね」
「野ばらって、じゃあ――」
「うん、休暇が終わったら出発する。ま、月くんも頑張って、N2地雷でも汎用人型決戦兵器でも開発してください」月が驚くのにもかまわずりりは昔見たアニメを思い出し、ふざけてみる。

「何…おかしいよ。そんなの」
「やっぱり無理か。じゃあ、現実的なとこでBC系?」
「そうじゃなく!」
「ああ、何でこの制服着て来たかってこと?あのね所属はさあ――」
「ふざけんな……何で、りりが国境なんかに送られるんだよ!あそこが今どうなってんのか知ってんの!」
「知ってるよお。りりちゃんはおじさんたちのアイドルだからね。情報収集は容易いのよん」
「もしかして」
「うん志願してた。ずっと前から。毒薬でもナントカ菌でも遠慮なく降らせて。月くんの造ったもので死ねんならかなり本望」
にこにこと笑いながら話すりりに月は怒りを隠そうとしない。
「いい加減勢いだけで喋るの止めな?思ってもないくせに」 
確かに深く考えもせずに口を開いていた。それでも嘘はついていない。
「えー思ってるよ?口は滑ったけどちゃんと本気だってば」
「どうして」
どうして?分からないとでも言うのだろうか。本当に?言ってはいけないと思って人が必死で我慢して来たというのに?まあ、単に振られるのが怖かったんだろうと言われれば返す言葉もないが。
「辛いんだよ、月くんといると。窒息しそうになる。いっそ殺してしまおうかと思うくらい」
りりは銃を月の額に突き付ける。
「辛いんだよ。すんごく。嬉しくなるようなことぽんぽん言うし、気安く触りやがるし」
 りりは元来お喋りだから、いったん口を開いてしまえば止まらない。無口な兄とは大違いだ。
どんなに顔が似ていても、いくら下手な小説を書いても、全然意味がない。
「でもね、りりはもう大人だから昔みたいに安易に期待したりしないの。期待しながら待ち続けて年食ってくのなんて御免なの」
ふう。溜息をついて月は目を閉じる。長いまっすぐな睫が頬に影を落とす。綺麗だと思った。
「大人は自分のことりりなんて言わないよ」
「あはん。それを言っちゃあおしめえよ」
それを可愛いと言ったのは月本人だった。でもそんなこと月は覚えていないのだろう。そう思うと泣きそうになってりりは慌てて瞬きした。
「殺すの」
乾いた声だった。軽くもみ消せることは月も知っている。その代わり若いりりの目覚ましい出世を妬み、失脚を望む連中にとっては格好の材料となるだろう。まあ、どうせ今では死にに行く人間なのだが。
「まさか。撃ちゃあしないよ。安心して」
そんなことをする人間だと思われているのなら心外だ。りりは月の胸にそっと掌を当てる。温かい。
「なんか妖しげなプレイみたい?」
「馬鹿だな」
「まあね。ああ、心臓すごい早い。酷いなあ。りりのこと信じてないの?」
実のところりりの心臓も半端じゃない速さで血を送り出している。
ぱちり。
唐突に月が目を開けてりりは弾かれた様に月の体から離れた。
さらに激しくなった動悸を隠すように早口で喋る。
「よっし、それじゃあ利用させてもらいます。月くんチュウして」
「は?」
「だから、チュウしてくんなきゃ撃つって言ってるの」
「脅し?」
「いえーす。ざっつらぁいっと!」
態とおどけて言うと月も呆れたように溜息をつき小さく笑って言った。
「いいよ何でもする。だから殺さないで」

頭が上手く回らなかった。
この、状況で、落ち着けるわけがない。
それでも身体が静かに動くのはどうしてだろう。
巨大ロボット並みの音を立てるべきなのに。
ガシャン、ガシャン、ガシャン。
近付いて、腕を掴んで、額に銃口を突きつけて、唇を、唇が、触れる。
「…何でもって、言った?」
「もう、腕力じゃ敵わないし、死なないって約束したからね」
「――兄さんと?」
「うん」
「やっぱり酷いね、月くんは」
「そうかな」
「そうだよ。最低だ。極悪非道の冷血悪魔だ」
「悪魔が冷血?」
「うるさいなあ。黙れよ」
りりは月の身体を床に押し倒し服を剥ぎ取ってゆく。涙がぼたぼたと零れ月の顔を濡らす。
「泣いてるの?」
「……見りゃあ分かるだろ。最悪だこんなの。嫌われたくなかったのに」
「嫌ってなんか無いよ」
「嘘だね」
「ほんとだよ。りりちゃんを嫌いだと思ったことは無い。今後どうなるかは別として」
「じゃあ、絶対嫌いになる。何しろ銃で脅され強姦された相手だもん」
明日まで待てたなら、もう少しうまいやり方も思いつくのかもしれない。
「そう、かな」
「そうだよ決まってる。今までの我慢が全部水の泡だ」
明日まで待てたなら。
「じゃあ――殺してよ」
時間を置いたら。
「さっきは殺さないでって言ったくせに」
頭を冷やしたら。
「あれは気の迷い。あの人以外とヤるなんて死んでも御免。ああ、キスもしなきゃ良かった」
「――約束は?」  
「だって自分で死ぬわけじゃない。殺されるんです、私は。ほら早く、初めてじゃないでしょ」
ふ。「最悪だ」りりは涙と鼻水でくしゃくしゃの顔で何とか笑顔を作った。
「最後に、名前呼んでもいい?」
「だめ」
「ケチ」
それなら代わりに名前で呼んでくれないかと言いそうになって、でもやめた。りりと呼ばれるのが嫌いだった訳じゃない。
「お別れだよ。――月くん」
「さよならりりちゃん、ありがとう。好きだったよ。あの人の次に」
ああ、つまり――世界で二番目に?


右手から衝撃が伝わって、慣れてる筈なのに頭の中は真っ白になった。でもそれも一瞬。





「ほんと、極悪非道」
呟くと光は手の甲で顔を拭った。それから前髪を吹き上げ銃口を咥えた。

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