りりり

「てらまいりぐちぃつぎはてらまいりぐちでっすっ。どなたさまもおわすれもののございませんよう」
自分が降りるバス停を告げるアナウンスでりりは目を覚ました。慌てて窓の外を確認し降車ボタンを押す。
意味も無く急いでバスを降りる。いつから降っていたのか細かい霧雨がりりを濡らした。顔を顰めても傘が出てくることは無い。いつもの癖で目にかかるほど伸びた前髪をふっと吹き上げ歩き出す。

りりの家はバス停から歩いて十分、今は雨のせいで腐った大量の向日葵に囲まれている。
「ただいまあ」間延びした声を張り上げても当然返事は無い。時刻は午後一時五十分。幾ら土曜日でも両親はまだ仕事だ。
二階にある自分の部屋に上がりベッドの上で鞄を逆さにして中身を出す。人の前でやると大抵止められるのだが、どさどさっという音を聞く快感を手放す気は無い。そのままベッドの上で深緑の制服を脱ぎ散らかし、何故か枕元にたたまれていた中学時代のジャージを身に着ける。仰向けに横たわり目を閉じると、『うー』とか『だー』とか意味の無い声を出してみる。一週間分の疲労と家に帰ってきたという安心感がどっと押し寄せて来て、このまま眠ってしまおうかとも思う。――怠惰は敵だ。いつも同じ寮の先輩に言われている台詞を口に出してみる。たいだはてきだたいだはてきだたいだはてきだ。「敵だああ」一際大きな声を上げると上半身を起こした。鼻から息を吐き、音を立てて首を回した。
ベッドを降り机に向かおうとしたところで制服に皺が出来ると言う母の小言を思い出した。下唇を突き出して前髪を吹き上げる。自分でも馬鹿面していると思うが、世の中にはこの仕草が堪らないと言う大馬鹿者もいるから驚きだ。深緑の上下と濃紺のネクタイをハンガーに掛ける。ベッドの上から靴下と薄水色のカッターシャツを取り上げると階段を下りた。
洗濯機の横にあるプラスチックの青いかごにシャツと靴下を放り込む。玄関の方から物音が聞こえた。もしも泥棒だとして撃ってしまったら怒られるのか、褒められるのか。下らないことを考えながら冷蔵庫を開けて一リットルパックのイチゴ牛乳を取り出しコップに注いで自分の部屋へ戻る。

窓際に寄せた机に向かう。こうして窓の外を眺めるのも久しぶりだ。家にいた頃は勉強をしていても本を読んでいてもいつも窓の外を気にしていた。

一番上の引き出しを開ければ以前と同じように原稿用紙が入っている。
『りりは今日十五になりました。』と、そこまで書いたところで横から伸びてきた腕に原稿用紙は攫われた。
「何よこれ」
ひらひらと紙を上下させながら尋ねたのはりりの予想通り月だった。色落ちしたTシャツに裾の擦り切れたジーンズ、その上に着ているのは何をこぼしたのか黄色や紫が飛び散っているカラフルな白衣。以前とちっとも変わっていない。
「恋文」
「恋文ぃ?」
「りりは十五になりました。もう、立派な大人です。子供扱いされる度にりりは悲しくなってしまいます。だから、だからおじ様どうかりりを――」
胸の前で手を握り締め芝居ががった口調で、考えていた続きを披露する。
恋文と言っても誰かに出すつもりなど毛頭ない。単なる創作だ。それは月も分かっている。
「おいおい、おじ様かよ」
「ああ?お兄様のほうが良かった?」
「変態ちっくだねえ。まあ、どうでもいいけどヤるの?」
「いや、ヤらないんじゃないかね、この二人は」
「でも、よく考えりゃ今時十五なんて十分大人でしょう。身体は」
「今時ってか、昔の方が早婚じゃん。ずれたな、じゃなくてこのおじ様は変態だからヤらない」
「ははあ、なるほど」
「もう一個あるよ。寮で書いたんだ」
「どれどれ」
りりはベッドの上に散乱していた荷物の中から一冊のノートを取り出し月に手渡す。月はそのままベッドに腰掛けてノートを開いた。

『嗚呼、一目で良ゐのです。
どうか僕を見て下さい。
ほんの刹那で良ゐ、貴方の瞳に僕を映して下さい。それだけで良ゐ。貴方が僕を見て呉れたなら、その瞬間に僕は死んで仕舞ひたい。
それはどれほど幸福な瞬間でせう。
その時貴方は悲しんで呉れるでせうか。僕の為に涙を流して呉れるでせうか。貴方の目の前で死んで行く僕を記憶に留めて呉れるのでせうか。
告げる事等叶わぬこの戀をそのやうに終わらせられたなら、それはどれほど仕合わせな死に方でせう。
此れは出す積もりの無い手紙です。かふして伝ふることの出来ぬ想ひを綴ってゐる僕は、如何しやうも無く臆病で卑怯で欲深なのです。

嗚呼、一言で良ゐのです。
どうか僕に声を掛けて下さい。
どんな短い言葉でも良ゐ。唯の挨拶でも、叱責でも、侮蔑の言葉でも構ひません。さうして、もしも貴方が僕の名を呼んで呉れたなら――唯一度でも貴方の唇が僕の名を紡ぐその時が来たなら、それだけで良ゐ。その瞬間に僕は死ぬことが出来るでせう。想ひ伝ふることの許されぬこの辛い戀を終わらせる事が出来るでせう。
その時貴方は悲しんで呉れるでせうか。僕の為に涙を流して呉れるでせうか。
如何すれば貴方は、目の前で死んで行く僕を記憶に留めて呉れるのでせう。どの様な死に方をすれば貴方は僕を忘れずにゐて呉れますか。
貴方に忘れらるること等堪へられないのです
僕は、如何しやうも無く卑怯で欲深なのです。

僕は、とても強欲なのです。初めは、一目見てもらうだけで良ゐと思つていた。やがて声を掛けて欲しひと思うやうになった。次には名前を呼んで欲しひと、そして今では忘れられたくない等とどうしやうもない我儘を。
けれども貴方は次々と僕の望みを叶えて呉れた。まるで僕の想ひを知るかのやうに。僕を見つめ、名前を呼んで呉れた。だから、だから愚かな僕は――』

「……これはまた。何、今恋文ブーム?」
「いや、これは懸想文。旧仮名で語るのもなかなか気持ちいいよお。あってるか不安になるけどさ」
「けそうね、けそう……。伝ふる、らるると来たら、くれるもくるる、じゃないか?」
「だって、呉れるって漢字で書きたかったんだもん。漢字で呉るるだと何か変じゃない?平仮名でも目が回りそうだしさ。」
「こういう口調ならもっと丁寧に下さったならとかにすれば」
「やだ」
「――良ゐもさあ、どうせなら全部平仮名にした方がいいんじゃない?」
「ああ、それは思った。漢字と組合わせるとなんか変なんだよね。恋も平仮名にすればこひに出来るし。分かんないんだよねえどの程度までやりゃあいいのか。『どうか』も『だうか』にした方がいいのか、とかさ」
「ああ、『あう』で『おう』って読むんだっけか。これ、ここで終わり?」
「ううん。この三つの手紙を間に挟みながら本文進めようと思って」
「で、この人はどうなんの?」
「ヤるよ、『貴方』と」
「えらく直接的だな」
「月くんだってさっき連発してたっしょ。想いを遂げます。こうね、うじうじと悩んでいたわけよ『僕』は。同じ寮で接触は多いし、クラスも一緒だし、裸とかも見れるし。でも言う訳には行かない。艱難辛苦を乗り越えてやっと友達になれたってのに、言ってしまったら居心地のいい今までの関係を失うことになる。近くにいると辛い。それでも離れたくは無いっと。んっんっ――辛い、苦しい。僕は君のことを思うと息が詰まりそうになる。恋しくて、愛しくて――それでもこの気持ちを伝える訳にはいかない。僕は君に軽蔑されることなど耐えられない。だからずっと黙っていようと――それなのに、君がそんな顔をするから、そんな目で僕を見るから、君らしくもない言葉を口にして僕に触れるから――だからもう僕は」
連発なんかしてないという月の声を無視し、りりは途中から作り声を出して長々と語った。
「同じ寮?おいおい男かよ二人とも?」
月が顔を顰めたが、りりは気にせず頷く。
「おう、いえっさあ。あの時代に高校進学しておまけに大学までいくエリート二人の青春ものさ」
「どの時代だよ。しかし、触れますか」
「触れます、触りまくりです。実は、『貴方』も『僕』のことが好きだから。肩に手え回してみたりさり気なく撫でたり、気づかぬ振りして間接キスとか、で、普段は冷たい人間の癖に『僕』のことは気遣ったりする」
「ああ、らしくない言葉?」
「そう、怪我一つしただけで『大丈夫かい?』とか、あとじっと見つめて意味深な台詞言ったりとか」
「そりゃあ、たまりませんね。そこまでされて押し倒したりしないの?」
「しない。『僕』は臆病だから。でも流石に我慢できなくなって言ってしまう。ええっと――僕は君のことが好きなんだ。ユタカは頬を紅潮させ下を向いて一息に言った。そうして俯いたままシャツの釦をぎこちなく外し出した」
「脱ぐのはいいけど、さっきまでの地の文じゃなかったの」
「は」月の言葉の意味が分からずりりは間抜けな声を出す。
「だからさっきまでの、僕は僕はってやつ。まさかあれ台詞?」
「あ?ああ!人称変わっちゃダメ?じゃあ――僕は彼の瞳から逃げるように下を向き、一息に言った。『僕は君のことが好きなんだ』頬が燃えるように熱かった。彼は何も答えない。顔を上げることが出来ず、俯いたままシャツの釦に手をかけた。僕の手は、酷く震えた。」
「ふふん」
「一人称で進めるのって楽だけど、僕って続くとなんか気持ち悪いね」
「さっきまでは楽しげに使ってたじゃん」
「ああゆうのは別。それより細かいことは置いといて感想聞かせてよ」
「ノーコメント」
「なんだよそれ」
「だって、下心をもつ身としては下手な批評をして嫌われる訳にはいかない」
「てっめえ、それじゃ貶してんのとおんなじだっ」
月の白衣のポケットから『トッカータとフーガ』が軽快に流れ出す。
「うわあい時間だ。じゃ、りりちゃんまた今度続き聞かせて」
「ばいばい」
「じゃね」

りりは机に向かう。横目で月をこっそり見送るために。

程なく車の音がして母が仕事から帰って来た。
「ああ、お帰り。電話くれれば駅まで迎えに行ったのに」
「バスで来た。向日葵すごいね」
「もう少し前に来れば綺麗だったんだけどね。雨が続いたから。あ、あんたが今日帰ってくるって言ったら月ちゃんも来るって」
その時、何故か『もう月に会った』と母に告げることが出来なかった。帰省して一番初めに会えたのが月だと言うことが嬉しかったからか、それはとても重大で、秘密にしておくのに相応しいことに思えた。
「へえ、よくウチ来るの?」
「ううん、たまにね。最近あそこも忙しいらしいから」
それで白衣を着たままだったのかとりりは一人納得する。実験の途中だったのかもしれない。それなりに責任もある月を職場から抜け出させたのが自分だとしたら悪い気はしない。いや、かなり嬉しい。
りりはもうずっと月のことが好きだった。

日が暮れて台所から唐揚げを揚げるじゅーっという音が聞こえてきた頃月はやって来た。

「おっじゃましまーす。りりーお帰りー」
「ただいまあ」
なぜだか月も昼間のことを口にせず、『秘密の共有』は一晩中りりの顔を緩ませ、母に気味悪がられることになった。
「さっきからへらへらしてどうしたの。気持ち悪い」

その晩父は仕事で帰って来ず、りりと母と月の三人で食卓を囲むことになった。
上機嫌のりりは喋りまくった。
「王様ってさあ何して暮らしてんのかなあ」
「王様?今どっか外国行ってるでしょ」
「え、何でそんなこと知ってるの」
「新聞くらい読めよ。結構おっきく出てたよ。手ぇ振って飛行機乗る写真」
「本当に。あんたもう少し世間のことを気に掛けなさい」
「気に掛けてるよお。ほら、あれだって知ってる。皇太子妃様御懐妊」
「いつの話だ。とっくに生まれてる」
「だってさあ。他人に赤ん坊生まれても大して目出度く感じらんないって」
「あーあ、こんなのが我が国の未来をしょって立つなんて信じられないね」
「まるちゃんみたいなこと言わないでよ」
「誰それ」
「去年英語教えてくれた人。君たちはいずれこの国を担う身となるんだ!自覚を持ちたまえ!って。あれはどっかおかしいよ、絶対」
「英語って言えば、坂下先生が一回顔出して欲しいってよ」
「あいつまだ西高にいるの」つるりと禿げ上がった前頭部と発音の悪さを思い出す。
「移動したけど去年戻ってきて今は教頭」
「へえー」
「それでね、生徒に進路について話して欲しいんだって」
「すごいじゃん」
「はあ?やだよ。進路講演会ってあれだろ、おやじばっか来てたやつだろ。それに話すことないよー」  
「いいじゃん行けば。制服着てけば居眠りする奴もいないって」

もう帰るという月を母は強引に引き止め泊まらせた。
「で、行かないの?学校」
母が風呂に行き二人だけになると月が言った。
「あれさあ、どうしてこの道を選んだかとか訊かれても困るもん」
簡単だ。月が言ったからだ。
「そういや、私も聞いたことないな。どうして?」
『あの制服かっこいいよね』その一言で決めた。他にも理由はあるが。
「夢を叶えるため」
「夢?何?」
「月くんを逮捕すること」
「はい?」
「地下活動を行う月くんのアジトを発見して踏み込んでその場で手錠を掛ける。で、連れ去った後は拷問に掛けて仲間の行方を吐かせる」
「――変態?大体地下活動って何?」
「勿論この国に革命を起こすんだ。拷問はねえ、裸眼で糸通しとかどう?」
月くん視力0.1ないもんね。笑いながらそう言うと一言「アホ」と返された。

りりは想像する。例えば薄暗い地下牢。粗末な木の椅子。手錠と足枷。鉄格子。拘束され項垂れる月。やがて足音が響き、はっとしたように顔を上げる。深緑の制服に怯える表情。灯りが点きそれがりりだと分かると――りりだと分かったら、どんな顔をするのだろう。
りりは妄想する。月に対して圧倒的に優位に立つことを。月の生殺与奪権とやらを握ることを。
そうだ、まず初めに名前で呼んで貰おう。月のこともちゃんと名前で呼ぶ。もちろん呼び捨てだ。そしてそれから――昔見たドラマみたいに「愛してる」とでも言わせようか。  
殺人鬼に脅され、泣きながら「愛してるわ!」と叫んだあの女優はかなり魅力的だった。
そうしてそれから――たぶん自分の方が捕まるだろう。月を逃がさずにはいられないだろうから。
「やだなあ、銃殺とかなったら」

死んだ兄は作家だった。りりとは違いとても無口な人だった。友人も少なくどちらかと言えば暗い方で、そんな彼が恋人を連れて来たときには家族一同驚いたものだ。りりたちの前では恋人も余り喋らなかったが、似たもの同士なのだと父も母も微笑ましく思っていた。兄の恋人に対するりりの第一印象は無表情な人、だった。
兄は三冊目の単行本を出した。恋愛ものばかりの短編集だった。(分かりやす過ぎると周りから冷やかされた。)
やがて二人は一緒に暮らすようになった。
まさに順風満帆、幸せいっぱい。兄が死ぬ少し前に彼らの部屋を訪れてりりはそう思った。
本の溢れた狭い部屋で兄は幸せそうだった。一頻り今書いているという長編(悲恋が軸のホラーだかミステリーだか)について語った後、照れながらりりにこう告げた。
「籍を入れようと思うんだ」
「はあ」
『悲恋』と言う言葉を恥ずかしげもなく使える男が自分の兄である、と言う事実について考えていたりりは間の抜けた声を出した。
「母さんたちにも伝えといてくれるかな」
「うん。ああ、結婚ってことだよね」
「まあそうなるね」
結婚。その言葉は床の上にまで本の積み上げられた部屋で暮らす二人には余り似合わない気がした。ちらりと兄の恋人を窺うと、その人はやはり無表情のまま肉じゃがを突付いていた。
肉じゃがには人参が入っていなかった。

食事を終えた後ビール一杯で赤くなった兄に代わり月が車でりりを送ってくれた。
二人の間には大して共通の話題があるわけでもなくぎこちない会話は終始兄の周りをさまよっていた。
「あの、兄貴のどこが好きなの?」
「どこって、いや、うーん。ああ、もともとファンだったから」
「小説の?」
「うん。綺麗で、血だらけで、怖くて、面白いじゃん。ああ、こーゆーのいいよなあって」
「じゃあ、本が好きなんであって本人はどうでもいいの?」
「え、…何、りりくん、もしかしてブラコン?」
「違うって」
「何だ……あ、何、もしかしていちゃつき足りないとか思った?」
こないだも言われたんだよねえ。ぼやいてしばし考え込む。
「うーんとね。どこがって聞かれると困るけど、世界で一番好きだよ」
さすが『悲恋』の恋人。良くそんな恥ずかしい台詞が言える。そう呆れたはずなのに、一呼吸置いて口から出た言葉は何故かまったくの別物で。
「二番目は?」
「二番目?――は、思いつかないなあ。あの人の次ねえ」
あの人の次、次かぁ――いないなあ。

二人が良く話すようになったのは兄が亡くなってからだ。
今ではいろんなことを知っている。
よく読む作家の名前や好きな映画。
人参が嫌いで、カレー以外の料理に入れないこと。
黄色のマニキュアがお気に入りなこと。でも上司に睨まれて「作業効率はピンクの爪と全然違わないのに」とぼやきながら職場につけていくのは止めたこと。
代わりに普段見えない足の爪がいつもその玩具じみた黄色に塗られていること。
掠れた歌声。「何」と言う口癖。
今でも兄が好きだと言うこと。

「てらまいりぐち」「え?」「初めてりりんち行く時ね、バスに乗ったわけ。で、あの人にどこで降りればいいのか聞いてたんだけど、あの人『寺間』って言ったんだよ。寺二軒の間にあるから寺間なんだって。でもそんなバス停ないじゃん」「寺間入り口って放送かかった時、てっきり『寺、参り口』だと思ったんだよ。お参りに行く道があるんだなあって。で掲示見て入り口だって気づいて慌てて降りた。すっごい焦ったんだから」

『あのひと』
時折ふと思い出したように兄のことを話すとき、月は決してその名前を呼ばない。
『あのひと』
その呼び方は月には似合わない。
その呼び方は兄には似合わない。
『あのひと』
そんな風に呼んでもらえるほどのことを、そんな声で呼んでもらう代わりになるようなことを、一体兄が月のために何をしたというのだろう。

好きだと自覚したのは、兄の葬式で号泣する月を見た時だった。
それは、ちっとも綺麗なんかじゃなかった。
綺麗だなんて思わなかった。
あれを見て綺麗だと言う奴なんているわけが無い。
大人の泣き方じゃなかった。眉間には皺が寄り、目は糸の様に細められ、涙と鼻水でぐしゃぐしゃの真っ赤な顔をして、大きな口を開けて吼える様に泣いていた。
それでも、嬉しかった。
いつもの無表情と違う顔を見られたことが。

その時からだった。

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