閉切ったカーテンとわずかな明かりのその部屋は昼間でも薄暗く、ハルは転ばないよう用心しながらゆっくりとお盆を運びました。
「もういいよ。下がっていてくれ。食事の支度も要らない」
魔法使いの言葉にハルは何か言いかけましたが、すぐに口を閉じて頷きました。
「じゃあね、美人さん」
「またね、こねこちゃん」
ひらひらと手を振る上弦と下弦にぎこちなくお辞儀をすると暗い部屋を出て行きました。
薄暗い部屋の中、後に残ったのは黒尽くめの5人。
「そう言えば使用人が客相手にさん付けか?お仕置きが必要だな」
どぼどぼと、下弦は紅茶の温度が下がることもテーブルの上に跳ねることも全く気にせずにピッチャーを空にする勢いでカップにクリームを注ぎました。
「止めておけ。お前の屋敷を出されたメイドで五体満足なものは居ないそうじゃないか」
底に沈んで融けきれないほどのジャムを紅茶に入れてぐるぐるかき混ぜていた上弦は、ぽたぽたと雫の垂れるスプーンを下弦に向けて振りました。
鼻の先まで飛んできた飛沫を避けながら下弦は右隣に座った朔の皿のクッキーを取ります。
「お前みたいに中身を壊すよりは紳士的さ」
食べかすぼろぼろをこぼしながら、意外と美味いなと呟く彼には、朔の文句なんて聞こえていません。
「壊れていたか?」
上弦は自分の皿の上のクッキーを幾枚か左隣の朔の皿の上に乗せながら問います。
「ああ。ぐっちゃぐっちゃのどっろどっろだ。あれじゃあ嫁にも行けやしない」
「手足を欠くよりはマシだろう?」
「どうだか」
そこで、二人はそろって魔法使いの方を向きました。
「「で?」」
「何だ?」
やかましい二人の会話を無視してお茶を飲んでいた彼は、不機嫌そうに言いました。
「何故あんなのを使ってる?」
下弦はぬるく白く濁って甘い液体の入ったカップを持ち上げます。
「まだ、慣れていないだけだ。もともとそんな仕事についてたわけじゃない」
魔法使いは、温かく薫り高く澄み渡る琥珀色のお茶のカップに視線を落とします。
視線が合うのを避けるその珍しい様子に下弦は僅かに顔を顰めながら軽口を叩くのはやめません。
「へえ、じゃあどこから拾ってきたんだ」
ドン!
朔が拳をテーブルに振り下ろした音でした。
「いい加減にしろ」
衝撃で倒れそうになったポットを押さえた三日月も何度か首を振りました。
「そろそろお喋りはお終いだ」
下弦と上弦は不満げに鼻を鳴らしてから先ほどの衝撃で滴の飛び散ったテーブルクロスをさっと引きました。
二方向から引かれた白い布は一瞬ピンと張って、それからその上のカップやポットを道連れに跡形もなく消え去ります。
下弦がテーブルを一撫ですれば代わりに黒いクロスが敷かれ、上弦は長い爪を黒く塗った人差し指でその上にごろりと丸い水晶玉を転がしました。
「最近城の周りの空気が澱んでいる」
西の三日月は組んだ手の上に顎を乗せて言いました。
「……城の中に目を飛ばすことが出来れば簡単だったんだがな」
四人にとって遠く離れた場所の様子を水晶に映すことなど赤子の手をひねるよりも簡単なことです。
それがお城の中でさえなければ。
上弦は、指の腹で円を書くように水晶の天辺をゆっくり撫でました。
磨き抜かれた玉に映し出されるのは碧く澄んだ南の海、下弦の守る地です。
「アレを持ち込んだのは、英雄色を好むを地で行く我らが素晴らしいお殿様だよ」
唇の片端をわざとらしく吊り上げて魔法使いに笑いかけます。
「……一体、何を?」
眉間に皺を寄せた魔法使い、顎鬚を撫でる三日月、無表情なままの朔の視線が集中する中、上弦はひらりとその手を下弦に向けます。
下弦は魔法使いに向かってバチンと片目を閉じて見せ、相手がしっかり顔をしかめるのを確認してから楽しげに口を開きました。
「それではわたくし、南の下弦が僭越ながら皆様にご報告いたしましょう。今や澱んだ城におわします尊き御方におかれましては先日南伯を訪ねたおりに、きれいどころを引き連れて優雅に舟遊びなどをお楽しみ遊ばされました」
いい加減な敬語ですらすらと語る下弦に上弦はにやにや笑い、三日月はため息をつき、魔法使いはより一層不機嫌そうになり、朔は表情を変えません。
「因みに綺麗どころは三人、中でも一人は亜麻色の髪に口元の黒子も悩ましい……」
ここは年長者が、と三日月はうんざりした様子で首を振り下弦の口から流れ出る雑音を遮ぎりました。
「もういいよ。それで、彼の方は、いったい何を持って帰った?」
問われて彼はにっこりと微笑みました。
水色の大きな瞳をきらきらさせて。子供のような無邪気さで。
「綺麗な魚を。鱗のある美女を。美しい、人魚を」
そっくりな顔で同じように微笑みながら、上弦はまるで子猫か何かにそうするように、優しく水晶を撫で擦ります。
どこか妖しげなその仕草の後で手のひらが離されればそこには岩陰を歩く王の姿。
護衛の騎士と、案内の漁師とその他大勢のお供を引き連れて進む王様は、やがて波打ち際に倒れる人影を見つけました。
白い肌を惜し気もなく晒した若い娘です。
驚きながらも駆け寄って声を掛け助け起こそうとした騎士を漁師の慌てふためく声が止めました。
それを助けてはいけません!
それは恐ろしい化け物です!
と。
その時ようやく王様は気づきます。
その娘の腰から下は、びっしりと魚の鱗にに覆われていることに。
気を失っていたらしいそれは、あたりの騒がしさのおかげででしょう、小さく呻いて身じろぎしました。
ゆっくりと身を起こし、ぱちりと開いたその瞳が不思議そうに周囲を見回します。
声を聞いてはいけません!
悲鳴のような漁師の声は、しかしもう遅かったのです。
その桜色の唇が開かれるより前に、透けるように白い首筋から柔らかく曲線を描きやがて色ずく乳房に向かって雫が伝う様を見た瞬間に、王様はその美しい生き物に激しく心奪われていたのですから。
王様が人魚を持ち帰ったと知って三人は呆れ返りました。
好色なことはとっくの昔に分かっていましたが、まさか人外のものにまで手を伸ばすとは。
「海の魔物に魅入られたか」
三日月は溜め息をつきました。
「魔物とはあまりの言い様では?」
下弦は先ほどからにこにこと楽しげな笑顔のままです。
「これは失礼。それでは海に棲む者とでも言い換えようか。波間に暮らす美しき歌い手たちに敬意を表して?」
三日月が肩をすくめます。
「そんなことはどうでもいい。彼らは陸の者とは相容れない。必ずやこの国に災いをもたらす。……善悪の問題ではないんだ。悪意はなくとも彼らの存在そのものが我々に害なす」
朔はいつもどおり表情を変えませんでしたが、その声はどこか苛立たしげなものでした。
「それなら悪だよ」
テーブルの上でごろごろといたずらに水晶を転がしていた上弦がぽつり、と言いました。
「あ?」
彼は、彼にしては恐ろしく真剣な表情をして、朔を見つめました。
「私たちに害を与える存在ならば、それを悪と呼んで何が悪い?」
その様子を見た下弦はやっと笑うのをやめ、彼もまた長い溜め息をつきました。
「まあ……災いを自ら引き込むとはなんと……」
途中で切られた言葉の後を三日月が引き取ります。
「愚かな」
魔法使いは先ほどからテーブルの上で組んだ手の上に額をつけて下を向き顔を上げません。
暗い部屋の中、時折蝋燭の縮む音だけがかすかに聞こえます。
「そろそろ潮時ではありませんか?」
下弦は、そっと魔法使いの額に触れました。
「潮時?そんな時はやって来ないよ。負けると分かっている勝負などする積もりは毛頭ない」
今まで幾度も繰り返された問いに、その指を振り払いもせず下を向いたまま魔法使いはまたいつもどおりの答えを繰り返しました。
「負ける?どなたが?はっ!ご冗談を」
いつもどおりに、三日月は憤りました。
「三日月、大事なことを忘れてはいないか」
いつもどおりに、朔が静かな声で諌めました。
「笏と王冠。それに玉座だ」
いつもどおりに、上弦は楽しげでした。
そして。
「だからこそ、今だよ」
下弦は、下弦は椅子から降りて床に膝を付き魔法使いの顔を下から覗き込みました。
彼の長い黒髪を掴み強引に横を向かせ、額同志が触れ合うほど顔を近づけます。
「城も、笏も、王冠も今や王を守りはしないだろう。彼は、人魚に脚を与えた。下半身が魚ではどうしようもないからね。」
「あの人らしい……他に目的なんぞなかったんだろう」
そう答えたのは上弦です。魔法使いは真正面から見つめられたまま口を開こうとしません。
「それだけじゃない。綺麗な魚はどうやら海の底に恋人を残してきたらしい、贈り物を山と詰まれてそれでも泣き暮らしていたそうだ。業を煮やした王は、彼女から記憶を奪った」
その沈黙に構わず、下弦は相手の目にしっかり視線を合わせたまま話し続けます。
「随分な入れ込み様だな。しかしその程度で城が王を見放すか?」
「ああ。歴代の王たちがそろって品行方正だったと言うわけでも無し。まあ、人魚を城に入れる、と言う行為そのものが確かに歓迎されるものでは無いが。災いの原因となるものを排除こそすれ王を咎めはしないだろう」
朔の疑問に、三日月も頷きます。
下弦は、魔法使いを見つめたままの姿勢で答えました。
「違うんだよ三日月。いいかい、王は、人魚の下半身をヒトのものに作り変え、その記憶を奪った。……誰に命じることもなく、王自らの手によって」
「……今、何と?」
普段から不機嫌そうな魔法使いの表情がより険しいもの変わりました。
王様は、魔法を使ったのだと、そう下弦は告げたのです。
そうして、それはこの国では許されないことでした。
国で一番の権力者を縛るほとんど唯一つの法でした。
その禁忌をたかが愛妾の一人や二人のために犯すことなど誰が予想できたでしょう。
「いくらなんでも、そんなことが」
朔の眉がほんの少しだけ寄せられます。
「あったんだよ。城の中まで覗くのは無理でも門番の話ぐらい聞けるさ」
また口を閉じてしまった魔法使いの額に、下弦は自分のそれをこつんとくっつけました。
髪を掴んでいた手を離し、両手で顔を包み込むように挟みます。
「だから、潮時だ。あの人は一国を、少なくともこの国を背負うには愚か過ぎる。……そうではありませんか?満月」
長い睫毛に縁取られた瞼を下ろし、国一番の魔法使いに、この国を守る存在に震える声でそう問いかけました。