「さよなら、だね」とヒコが言った。
「おやすみ、だよ」と銀は答えた。
百年の眠りについて、王子様のくちづけで目を覚ますんだ。
その手の話好きだよね。
百年たったら、
百年たったら?
多分、
ぶくぶくぶく、と鯉が言った。この広いうみにたった一匹だけいる鯉だった。銀は眠りについた。一人だった。
「ぽんっ」
銀は目を開いた。すぐ目の前を鯉が横切って行く。
「ねえ、今の音聞いた?」
ぶくぶくぶく。
「きっと、ヒコよ。ヒコがびんを開けたんだ」
彼女は満面に笑みを浮かべ、水面を目指した。
「…ヒコじゃない」
そこには別の少年がいて、一人で絵を描いていた。眼鏡をかけて学生服を着た少年だ。
銀は爪を噛んだ。ヒコは来てくれない。
どうして来ない?
少年が泉にそっと手を入れた。
銀は音を立てずに泳ぎ、彼の指をくわえた。
ぱくっ。
「うわっ!」
「はははは」
銀は笑いながら岸に上がった。
僕を睨らみ付けて彼女は言った。
「あんた誰?」
白い服を着た、髪の長い美しい少女だった。
「ぼ、僕は空」
誰?と尋ねられて、名前を答えるのはどこか間抜けな気がする。もっとも、他に答えようはない。どうして姓を飛ばしたかなんて分からない。ひどく、僕はひどく慌てていた。
「タカ、勝手にここに来ないで。このうみはあたしとヒコだけのなんだから」
「…この泉が?」
「そうよ!」
不思議なことに少女の髪も服も濡れてはいなかった。ふわふわと膨らんだ袖やレースの付いた長いスカアトは彼女には甘すぎるようで、でもよく似合っていた。
「何、ジロジロ見てんのよ!わかったら返事しなさいよ」
ざあっ。
風が吹いて、彼女の髪が唇に貼りつく。
白いスカートの裾が翻って、脚が、
「う、うん。わかった。もう、来ないよ」
なぜだか分からないけど、とにかく、焦っていた。僕は慌てて絵の具や筆を片付け始めた。
「ねえ、何描いてたの?」
少女が言った。いつの間にか、隣に座っている。
「あ、えっと、森を」
「ふーん、つまんないの」
「そうかな」
「そうよ。…ねえ、タカあたしを描いて!」
「君を?」
「そしたら、ここに来ること許してあげてもいいわよ」
ヒコはもう来ない。あの小びんを持ったまま…もう来ない。
少女はシロガネと名乗った。漢字一文字で銀と書く。銅はあかがね、金はこがね、くろがねは鉄。すらすらと並べて、これぐらい常識だと偉そうに言う。
「タカは?鳥の鷹?」
漢字で空と書く。そう教えると唐突に笑い出した。珍しいと言われるのには慣れていたが、笑われるのは初めてだ。
「…何か面白い?そんなに変?」
「…違う、すごい、信じらんない」
腹を押さえ、涙さえ浮かべて笑い続ける。
「これはもう、運命だわ」
「運命?」
頷いて髪を掻き上げ、微笑む。
「ああ、もしかするとヒコの呪いかも」
冷たい両手で僕の頬を挟みながらそう付け足し、銀は僕にキスをした。
陥落。
完敗。
僕はたったそれだけで、たったこれだけで、捕まってしまった、らしい。
「ねえ、新しい服が欲しいの」
「服?え、でも…」
「欲しいの!」
彼女のくちびるは冷たい。水の中にいるから。
指も肌も、髪の毛さえも冷たい。
「明日、花持ってきて」
「どんな?」
「赤い花」
「咲いてたかなあ」
「買えばいいでしょ、そのくらい。持ってこなかったら、もう××××してあげないから」
「…××とか?」
「そうそう。当然×××とか×××××もなし」顔に似合わない言葉がどんどん飛び出す。僕は溜め息をついて銀の頬をつねった。
「してないって、そんなの」
彼女と会うたびに、僕は痩せていく。よくある話だと思う。きっといつか、彼女のあの細い腕が泉に僕を沈めてくれる。冷たい泉に。
街のはずれに古い大きな屋敷があって、「おばけやしき」という平凡な名前で呼ばれていた。今は誰も住んでいないその屋敷には昔、町一番の金持ちが住んでいた。残念なことに彼とその妻の間には病弱な娘しか産まれなかった。そこで彼が外で産ませた一人の男の子が跡取りとして屋敷に呼ばれた。
主が仕事で留守の間、広い屋敷の中で少年と少女と母親に何があったのか、誰も知らない。
やがて娘が死に、少年も消えた。
初めて一人で花屋に入った。
店内には運悪く女性客しかいない。みんながこちらを見ている気がして、落ち着こうといろんなことを考えた。
赤い花と言われて真っ先に思いついたチューリップは見あたらない。よく考えれば今は七月だ。時季が違う気もする。でもハウス栽培に季節なんか関係ないんじゃないのか。
真っ赤な薔薇、が目に入るがあれを買うのは恥ずかしい。散々迷ったあげく、ガーベラという花を買った。濃い赤の、凛としたきれいな花だった。
花を持って行くと銀は小さなガラスのびんをくれた。透明な液体が入っている。
「何これ?」
「うみの水」
「どうして、ここをうみと呼ぶの?」
「ヒコがそう言ったから」
「…はい、これ」
僕が約束の花を渡すと、彼女は服を脱ぎ出した。七分袖の白いブラウスと白いスカート。僕は身じろぎ一つ出来ず、立ち尽くす。服を脱ぎ終えると彼女は真面目な表情をして、僕の方に手を伸ばした。そうして、無言で僕の顔を撫で下ろした。
思わず目をつぶる。
「ねえねえ!似合う?」
目を開く。
濃い赤の、袖のない膝までのワンピース。裾と肩口は黒いレースで飾られている。
「ねえ!似合う?似合ってないの?」
「ううん、似合うよ。とっても」
「でしょ。でもそのめがねは空に似合ってないわ」
細く冷たい指が頬に触れる。
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屋敷の裏には森があって、森の奥には泉がある。森の入口には小屋があって一人の老人が番をしている。
レンズが丸すぎるし、大きすぎる。つるの色も気にいらないし、大体、縁がないのが最低だ。絵を描く僕の隣で、銀は僕の眼鏡をこきおろしている。
「あたしフレームレスって大嫌い」
「はいはい、次は金縁にでもするよ」
適当に答えるとぷっとふくれた。立ち上がって泉に飛び込み、しばらく出てこない。
「ねーえー、なんでまた木なんか描いてるの?」
「宿題だから」
「あたしの絵なら、いーっぱい描いたじゃない」
「…あれは、出せないよ」
「ああ、ヌードばっかりだもんね」
泉の中で首だけ出して銀は笑う。
「そっそんなの一枚も描いてないよ!」
「冗談」くすくすくす。笑いながら水から上がる。
嘘だ。本当は、家で何枚か描いた。彼女には見せてない。
「ねえヒコ」
「僕は空だよ」
反射的に答えて、途端に後悔する。
「分かってる。ヒコの髪はもっと黒い」氷りついた表情。
「それから?」
「ヒコの瞳は、もっと痛い」
「目が痛い?ゴミでも入った?」
「…莫迦」少し、微笑う。
「髪が黒くて目がキツくて、それから?」
僕は彼女の瞳を覗き込む。
ふふふ。銀は俯いて笑った。下を向いたまま言う。
「うーん、あのね、ヒコのキスはもっと…」
とりあえずキスをしてから、顔を見合わせてげらげら笑った。銀は涙をこすりながら、こんなに笑ったらせっかくの甘ったるい会話が台無しだと文句を言う。
深呼吸。なんとか笑いを止めて、やりなおす。
「誰か来たらどうする?」
「来ないわよ誰も」
「どうして?」
「だって、ここ私有地だから。何のために番人がいると思ってた?」
「僕が小屋の前を通っても何も言わないよ」
「空はびんを持ってるから」
「それ、絶対、飲んじゃ、…だめ」