銀色の泉 後編

教室はつまらない。彼女が居ないからだ。良く考えれば、彼女はあそこにしかいないけれど、彼女の居ない他のどの場所よりも、教室はつまらない。殆ど寝て過ごした。目を開けていても眠っているのと大差ない。休み時間、彼女を描いている間だけ、目を覚ましていられる。
「水木くん、水木くん、何描いてるの?」
誰だっけ、この人。
「うっわあ、すっごい美人」
「…うん」
甲高い声。短い髪。見覚えはあった。同じクラスだとは思う。佐藤、佐々木、坂田、そのあたりだ。
「知らなかったあ、水木くんて絵うまいんだね」
知らないままでいい。さっさと消えてくれ。
「ねえ、水木くんも明日、お祭り行くでしょ」
「あ、ああ」すぐに肯定したことを悔やむ。
「あのね、みんなで『おばけやしき』に肝だめしに行くの。水木くんも行こーよ」
「え?」
ゆっこーまだあ?
誰かが教室の外からその子を呼んだ。……ゆっこ、佐々木裕子。佐々木さんだ。
「今行くー。じゃあ、水木くん明日八時におばけやしきね!」
翻る紺色のスカート。ばたばたと煩く響く足音。

花を買って迎えに行く。途中、小屋の前を通ると初めて声をかけられた。
「彼女はまだ、あの白い服を着ているのか」
「いいえ。銀と知り合いですか?」
老人は黙って首を横に振った。

わたあめ、金魚すくい、りんごあめ、焼きそば、タコ焼き。銀は僕と手をつないだまま片っ端から夜店を覗いてゆく。すぐに飽きてしまった僕は、彼女に引っ張られるまま歩いた。甘い匂い、笑い声、笛の音。彼女は紺の浴衣を着て赤い帯を締めている。 飴細工の店の前で突然動かなくなった。様々に形作られてゆく飴を真剣な表情で見つめている。
「買う?」声をかけても返事がない。そのくせ、握った手は放してくれない。僕は苦笑して何となく人波の方を眺めた。浴衣を着た、女の子ばかりの一団が賑やかにこちらへ進んで来る。
その中の一人が僕に目を止めた。
「水木くーん」手を振って、…駆け寄ってくる。おまけにもう一人着いてきた。
「佐々木さん、小野さんも」最悪だ。
「へーえ、水木くんでもこんなとこ来るんだ」後から来た方が言って笑う。
「何言ってんのよバカ。水木くんなんか食べた?このごろやせたよ」
曖昧に笑って、早く消えてくれと祈る。
「肝だめし行こーよ。一番はじっこの窓に女の子の幽霊出るんだって」
必死に断る口実を探す。
「たーか」急に手を引かれ慌てて振り向いた。
「飴買って、飴」銀がかなり興奮した様子で言う。
「ちょっと待って」
佐々木さんたちの方を向く。口実なんていらなかった。
「ごめん。やっぱり行けないや。じゃ」
「どれがいい?」
急いで財布を取り出しながら銀に尋ねる。
「あれ!あの虎!すっごいの、ひげもあるんだから」

「誰、あれ」
「あの絵の美人だ」
女子に見られたっていうことは、すぐにクラス中に広まるんだろう。まあ、困ることは別にない。
虎を手に入れた銀は上機嫌で、わたあめの袋を振り回しはしゃいでいた。

もちろん、噂は広まる。
「それでね、それで、すーっごい美人なの」
「髪が長くて細くってさあ、お祭りのときはゆかた着て髪上げてた」
「色白でねえ、目もおっきくて。しかも水木くんのこと呼び捨てなのっ!『たあか』とか言っちゃって」
「そうそう、そんであの水木くんが笑うっ!にこおっと!びっくりだよもう」

いくら噂が広がっても、肝心の銀の正体は誰も知らない。僕だって知らない。
秋がやって来たけど、僕はまだ生きている。

祭りが終わると秋になる、という国語教師の声で目が覚めた。机の上には前の時間の数学の教科書を出したままだった。時計を見ると授業の始まりから既に二十分が過ぎていた。急ぐ気も起こらず緩慢な動作で机の中から教科書を取り出す。僕のことなど気にも止めず、教師はまだ縁日の思い出を語っている。興味は湧かなかったがふと、彼がこの町の生まれなのだと思い出した。祭りの日、肝試しに行った連中は結局、屋敷の敷地内に入ることが出来なかったらしい。裏の森の方から入ろうという提案は浴衣姿の女子により即座に却下されたという。流石に門の鍵を壊すわけにもいかず、塀の周りをぐるぐる回って帰ってきたそうだ。
妻と二人の子を同時に失ったという屋敷の主がその後どうなったのか僕は知らない。そもそもその三人が何故死んでしまったのか、それすら知らないのだから。

僕は新しい眼鏡を買った。もちろん黒縁の。その眼鏡を掛けて毎日森へ通った。ある日親に、帰りが遅いわけを尋ねられた。今頃気付いたのかと飽きれつつ、美術部に入ったのだと答えた。自分の中の青春像を押しつけて始終、帰宅部はつまらない、何か部活に入れと言っていた親は喜んだ。余りにも嬉しそうだったので、少し気がとがめて、とりあえず入部だけはしておいた。幸いなことに僕の学校の美術部はあまり活動熱心ではなかった。
がさがさと音を立てて落ち葉を踏みながら確かにもう秋だと納得した。繁っていた葉が落ちた分日が入るようになり、森の中はいくらか明るくなっていた。それでも夕方の空気は冷たく、半袖だと少し肌寒い。 そのうち全ての葉が落ちるのだろうか。
葉が、落ちる。
隙間が出来る。
森が裸になる
僕を隠すものは何もなくなる。
隙間が

下を向いて歩いていた僕は辺りの暗さに気付き顔を上げた。そして安堵した。どうやら落葉樹が生えているのは森の入口だけだったらしい。繁った葉が日光を遮り、いつも通り薄暗い森の中に僕はいた。
泉の周りには、『暖かな秋の日差し』が差し込んでいる。近付くと柔らかな緑の上で黒い浴衣を着た銀が眠っていた。周りには白い花が咲き乱れている 僕は銀の傍にそっと腰を下ろす。初め、無地に見えた浴衣は良く見ると裾に白い花弁が一片だけ描かれている。あるいはそれはどこかから飛んで来た本物の花なのかも知れない。銀を起こしたくない僕は、それを確かめることが出来ない。代わりにスケッチブックを取り出し彼女を描くことにする。
いつの間にか日は落ち、辺りは急速に暗くなっていった。気温も随分下がったようだ。それでも銀は目を覚まさない。 死んだように眠る少女。ずっと昔に死んだあの屋敷の病弱な娘。
―――くだらない。
「何が?」
薄暗がりの中ぱっちり開いた目の白目の部分が光って見えた。
「起きてた?」
「ううん、今。ねえ何がくだらないの?」
「いろいろ。…いや、何もかも全部」
「暗いねえ」ふふふ、と笑ってから彼女は言った。
「うん」それが僕のことなのか、それとも辺りを指すのか分からないまま僕は答えた。
「浴衣なんか着て寒くない?」
「だって、着物にしようと思ったけど着付けが出来ないから。空、出来る?」
「出来ない。そっか浴衣なら着れるんだ」
「うん。あ、がっかりしてるね」
「え?」
浴衣の裾が濡れるのを気にせず銀は泉に足を入れる。
「現実的でつまらないって顔してる」
ちっとも現実的じゃない。この季節に浴衣を着て水に足を浸していることも、今、水から足を出した彼女の浴衣の裾がちっとも濡れていないことも。初めから全然現実的じゃない。そしてそれは、僕をとても幸福にしてくれる。
「何笑ってるの?」
「なんでもない」
「教えてよ」
「……うん、ここって泉って言うよりは池だよね。水の出入りもないみたいだし」
水は澄んでいるように見えるがいつも空の色を映していて底を覗くことは出来ない。一匹だけいるという鯉も僕は見たことがない。
「だからあ、うみだって言ったでしょ」
「――海、か」
「そう、うみ。それに水の出入りならちゃんとあるよ。地下で。」
「ふうん」
もうすっかり夜になり、黒を着た銀の姿は特に見えにくい。僕は彼女の腕を掴みこちらに引き寄せた。白い顔がだけがぼんやりと浮かび上がる。
「何?」
「暗くて、近くじゃなきゃよく見えない」
なんとなくそこにあることを確認した方がいい気がして、輪郭を指でなぞる。額、瞼、頬、鼻梁、頤、唇。そうして、そのまま唇を合わせた。冷たい、感触。一旦顔を離して彼女は言った。
「こうゆうのも全部くだらないんでしょ」
微笑んで見せ、今度は噛み付いてくる。

今、何時だろう。
僕は地面に仰向けに横たわり、丸く切り取られた星空を見上げる。今日僕は本当に“くだらないこと”をしそうになった。それは国語の授業の後のことだ。実は居眠りにしっかり気 付いていた教師に廊下へ呼ばれ注意を受けた。許された後、この町出身の彼に僕は聞きたくてたまらなかった。あの屋敷について何か知らないかと。
唐突に、鋏を持っているかと尋ねられる。鞄の中にならあると思う、そう答えると嬉しそうに髪を切って欲しいと言い出した。今日は暗いからもう無理だ、僕が言うと灯りならあると言う。どこに? と尋ねたその瞬間、辺りは突然明るくなった。泉の周りに咲いた一面のシロツメクサが、光っていた。茫然とする僕を銀は面白そうに見つめる。

「どのくらい?」
「おかっぱにして」
「難しいよ」
さらさらと流れる髪を持ち上げ、僕は恐る恐る鋏を入れる。
「早くしないと灯り消えちゃうよ」
焦りで余計にぎこちなくなる。

ちくちくすると言って銀は浴衣を脱ぎ、泉に入る。シロツメクサの灯りはまた一つ、また一つと消えて行き今ではわずかに点在するだけだ。
「良く似合うね。その髪型」
僕は音を立てて泳ぐ銀に呼びかけた。水音のせいで自然と大声を上げていた。もう、誰に見つかろうと、どうでもいい気がした。
「見えてないくせに!」
銀も叫び返す。
「美容師の腕がいいからね」
足元にはぼんやりとした白い光。それすらも徐々に消えて行きまた暗闇が訪れる。歌いながら泳ぐ銀。水しぶき。寒さなんて感じなくなっていた。とても、僕はとてもとても幸福だった。それなのに、泉から上がった銀は僕に言った。
「ねえ、そろそろ帰った方がいいんじゃない?」
「え」予期せぬ台詞に僕は言葉を失う。
「もう、遅いし」
「…いやだ、帰りたくなんかないよ。僕はもう――」
やっとのことでそう言った僕に彼女は言う。
――だって、まだ秋だし
――あたしもうずっと、雪を見てない
――雪に触ったこともない
――あの夏からずっと、冬が来るのを待ってた
――だからね……
呟くように言って、
「だから、まだなんだよ。ばいばい」
まだ光っていたシロツメクサを二、三本僕の手に押しつけ、泉に潜った。

その日はそれっきりいくら呼んでも出てこなかった。
それでも次の日泉へ行くと、銀はいつも通り出てきた。昨日のことは何も言わない。
僕も聞かなかった。
いつも通りだらだら過ごす。
僕の切った髪が段々伸びてゆく。
毎日他人の土地に入って行く僕を、咎める者は誰もいない。それどころか、気付いてすらいない様だった。とりたてて目立つこともない人間が一人くらい消えても、問題にはならない。そういうものなんだろう。

やっと吹雪がやんだのですぐに家を出た。そろそろ終わりが来る筈だ。
積もった雪の上を泉まで歩くのは骨が折れる。着いた頃にはまた雪が落ちてきた。
水音が聞こえる。
「銀!」僕は岸に膝を着く。
彼女は泳いでいた。
「大丈夫、ここの水は氷らないの」
「でも」
「空の顔あったかーい」
冷たい指をしていた。
「どうして、この水を飲んじゃいけないの?」
僕はびんを取り出し振ってみた。
「毒だから」にこやかに答える。
「毒?」
「そう」
くすくすくす。
「じゃあ、どうして僕にくれたの?」
銀はまた白い薄い服を着ている。
「ヒコはびんを開けてくれなかったから」
ずっと一緒にいたかったのに、そう呟いて僕に尋ねる。
「空は飲んでくれる?」


「…ヒコはどうなったんだ?」
雪はどんどん大きくなっていった。
「ヒコは、あたしが、沈めたの。泳げないから、たくさん、水を飲んでた」
「僕は泳げるよ」
「じゃ、一緒に泳ごう」
銀が微笑う。その顔を、もっと良く見たいのに、雪が邪魔をする。水の中なら雪は邪魔なんか出来ないだろう。
僕はコートを脱ぎ、マフラーと眼鏡を取って泉に入った。

どう?
冷たい。銀の肌みたいに。
莫迦。
目の前を鯉が横切った。
「ぶくぶくぶく」
何だって?
おやすみって、もう冬眠するんだって。
銀。
何?
僕たちも春まで眠ろうか?
それも、いいね。

銀は眠りについた。もう、一人ではなかった。


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