039:オムライス
「あれ、おごるから、チューさせて」
そう言って斎藤が指さしたのは、『ふわとろオムライスフェア開催中!!』の上りだった。
初めて。
クラスの違う、帰る方向も違う彼女に「一緒に帰ろう」と初めて誘われて、私は急いでトイレに飛び込んだ。
同じクラスの佐藤さんが素晴らしいテクでマスカラを使い、まつ毛をワサワサにしている。その横で、私はかばんをかき回す。顔をどうにかしようにも大したものは持ってきていなくて、というか何にもなくて、出てきたのはリップクリーム、脂取り紙、日焼け止め、ブラシ、ピンクのクマのついたゴム。
最悪。
あああ、どうしよう。
そもそも私は地味なのだ。一応進学校なうち学校の女子はほかの学校の子と比べればたいてい地味だけど、その中でもかなり地味なのだ。スカート切ったのだってすごい思い切りが必要だったのだ。地味でやる気のない私の、しかも服装検査の日のかばんに、ろくなものが入ってる訳があるかボケ!
二つに分けて縛っていたゴムを外して、ブラシで思いっきり梳かしても、髪にはくっきり跡が残る。
佐藤さんが寝ぐせ直しのスプレーを使うかと聞いてくれたけど、跡がとれるほど使ったらぺったりしちゃうのは経験済み。
どうしよう。もう一度かばんをひっくり返して、ワックスが転がり落ちる。
「……佐藤せんせー、みつあみってあり?」
「あー、細くてゆるいのなら、あり」
なるほど、そういえば可愛い子のみつあみは先が細いな。この前毛先を梳いたばっかだから多分ありだ。……ほら、結構可愛い。が、少々太いような。
「あたし、昭和の女学生を目指すわ!」
「じゃあ海老茶袴も装備しろ」
「それ明治だろ」
「ああん?じゃモンペだモンペ」」
マスカラをきゅっと回して締めた佐藤さんがつけまつ毛を取り出す。
「え、そんな順番なん?」
「基本、裏技」
「どっちだよ」
お礼を言ってから私はみつあみを外はねさせて、小学生以来の廊下ダッシュで玄関を目指した。
靴箱の横で、斎藤は息を切らす私を見て、少し笑った。
すごく平和で、幸せだと思った。
それなのに。
なんだか良く分らないまま、期間限定フェアのメニューを開き、オムライスを選ぶ。他にもたくさんメニューはあるのに。
すごくきっちりとポニーテールを結ったウェイトレスに『海の幸のクリームオムライス』を指さす。
「海の幸のオムライスがお一つ、ホットコーヒーがお一つ、以上で宜しかったでしょうか?」
彼女がピンクのエプロンのリボンとピンクのフレアースカートの裾と乱れのない尻尾を揺らして行ってしまうと、私たちは沈黙の中に取り残された。
水を飲む。ペーパーを引き抜く。爪楊枝の容器を転がしてみる。
斎藤は水を飲む。
斎藤が水を飲む。
私は。
笑いが込み上げてくる。
私は、爪楊枝を引き抜いて、そしてニヤニヤしながら斎藤を眺める。
水を飲む斎藤は最高に爽やかだ。
氷の浮いた冷たい水が、とてもきれいなものに見える。きれいな国のきれいな森の奥深くのきれいな湧水か何かに見える。
世界中のガムと洗剤とミネラルウォーターと石鹸の会社は斎藤をCMに起用すべきだ。
そのぐらい爽やかだ。
でも、その水はもう三杯目だ。
「斎藤、コーヒーだけでいいの?」
「うん」
「あのさ、あたしお金あるよ?」
ひゅっ、と斎藤が息をのんだ。
「いらない!……おごる、から、」
動揺している斎藤を見て、私のニヤニヤ笑いは止まらない。
「すっごい空いてるね」
「ん」
口が、滑る。つるつるつるつる、大して意味もない言葉が漏れていく。
「オムライス好き?」
「ふつう」
「今日の検査時間かかったね」
「二組の子パーマかけてきた」
「あー。バレー部の人でしょ。色もすごいよね。黒くしないと試合出してもらえないんだって」
「へー」
だって、斎藤の顔はやっぱり赤いのだ。
眉毛が困った感じに歪められて、唇がもぞもぞして。
私は頑張って頑張って込み上げてくる笑いを抑え、まともな顔を作る。
「うち爪まで見られたよ。斎藤は?」
「前髪切れって」
「前、長いもんね」
斎藤はとても素敵なショートカットで、でも前髪はそろそろ目を覆いそうに長い。
「うわっ」
なんとなく手を伸ばしたら逃げられた。
すごい顔で椅子の背もたれに張り付く斎藤に、私は手をひらひらさせた。
「……ごめん」
「……うん」
なんだよ。すごいこと言っといて、往来で。なんだよ。
行き場を失った手で、デザートメニューをめくる。
「本日のケーキは、レアチーズケーキ、ソースはブルーベリーかキウイがお選びいただけます。……ケーキも食べちゃおうか?」
こたえがない。
「さいとー」
「……レアチーズ、好きじゃない」
「あ、あたしも。一緒だね」
なんだか嬉しくなって笑ったら、斎藤は椅子に張り付いたままギュッと唇をかみしめて下を向いた。
「……死にそう」
「え?」
聞き返したちょうどその時、オムライスがやってきた。
ウエイトレスさんはすごいな。プロだな。客がどんな様子でも頓着しないんだもんな。
コーヒーを前にして、斎藤は水と氷を足したコップをギュッと握りしめ、それから掌を自分の頬に押し当てる。
私は、目の前の皿を眺めた。
「え?赤い?」
黄色い卵と赤いどろどろの上にムール貝が二つ。
「そりゃ、トマトソースだからな」
「え?クリームったらホワイトじゃ?」
「写真もトマトだったよ」
余裕を取り戻した様子が、面白くない。
「え、だって緊張してたから」
面白くないから、だから、何がと言いたそうな顔をした斎藤に言ってやる。
「緊張って言うか動揺?するでしょ。あんな、いきなり言われて」
斎藤が、コーヒーカップの上でつまんでいた角砂糖が投身自殺した。ぼしゃっとしぶきをあげて。
「ねえ、なんで?」
またも答えがない。唇を尖らせてコーヒーの飛んだ襟をいじっている。
「なんで?」
「……制服で、」
斎藤は、スプーンをとりコーヒーをぐるぐるかき回しながらもごもごと喋った。
「制服?」
「制服着て、Hしようって言えば、いちころだって」
「は?」
「あ、や、あの制服エッチの提案、じゃなくて、制服を着た状態で、さそ、言う、の、ね?」
慌ててしてくれる説明はほとんど無意味だ。
「それ言ったの、おっさんでしょう」
相手の中の私もおやじだぞたぶん。なあ、一体どんなふうに相談した?
「……うん」
「信じるか?普通」
「もう、どうしていいか分んなくて」
ぐしゃ、と斎藤の顔がゆがむ。
うつむくと、長い前髪が顔を隠す。やっぱり切るべきだ。
ひ、とか、ぐ、とか声を出しながら斎藤がしゃくりあげる。ぼたぼた、とテーブルの上に水滴が落ちて、黒い髪が赤い頬に張り付いて、私はたまらなくなる。
「斎藤、コーヒー、髪入る」
「うっ」
「斎藤」
スプーンがソーサに落ちてかつんときれいな音を立てる。
「あんたがっ!」
斎藤が、握った手の甲で顔を乱暴に拭う。睨みつけられて、私はますます興奮した。
「うん?」
もう駄目だ。いったん引っ込んだ笑いがぶり返してくる。抑えられないニヤニヤ笑いで、私は彼女を見る。
「だって、あんたが……」
「あんた、じゃなくて、名前で呼んでよ、ちーちゃん」
「ちっ!」
「千紘だからちーちゃん、あ、あたしもさっちゃんでいいよ!名前呼び捨てでも!」
「さ、」
「うん」
「西條、」
「あー、もー。さやかでいいよ」
「無理!絶対無理!」
彼女はまたも泣き出しそうな顔で手を振る。
「なんで?……そんでさ、仲良くしようよ。もっと。ケーキ食べておしゃべりして、手ぇつないで」
それで、名前で呼び合ったりしちゃってー。続けた私に、斎藤は呻いた。
「なに、ダメ?やだ?」
「やじゃない!」
ぽろん、とまた一つ。かわいらしく涙がこぼれた。
「泣かないでよ」
うう、とかなんか呻きながら斎藤は、ペーパーをごっそり引き抜く。ごしごし乱暴に顔を拭くのを見て、肌が荒れそうだと思う。
「……恥ずかし、死にそう」
「斎藤、死ぬ死ぬ言い過ぎ」
ああ、可愛い。最高に可愛い。凶悪に可愛い。
「……うん」
斎藤は、赤い顔をしている。拭き残した涙の跡が残る頬に黒い髪を張り付けている。私は湯気の立つオムライスを食べる。
トマトクリームソースの中には、値段の割に大振りなエビとイカとホタテが入っている。
幸せだ。何もかも。
「おいしいね」
「……うん」
おいしいオムライスと、可愛い斎藤。とてつもなく幸せだ。
「斎藤、大好き」
「……馬鹿、ほんと、心臓、死ぬ」
自分の声が思ったよりも甘ったるく響いたのと、その内容も相まって、私はなんだか恥ずかしさでいっぱいになったけれど、赤い頬をした斎藤がとうとう両手で顔を覆ってずるずる椅子に沈み込んで行くのを見て、まあいいか、と思った。
終
→髪の長い女に続きます。