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景 観



静岡市の駿河区と清水区の境にある有度山(307メートル)付近の丘陵一体を日本平と呼んでいます。昭和25年毎日新聞社が主催した日本観光地百選の平原の部で一位に選ばれました。昭和26年には日本平は県立自然公園に指定され、昭和34年には国の名勝の座を得ました地理的には清水地区と静岡地区の真ん中に位置し、眼下に広がる駿河湾から遠く伊豆の山々を見渡し、南アルプス、富士山を望む景観は日本を代表するものです。

日本平の日本(にほん)は国名からではなく、日本(やまと)から名付けられたといわれています。その昔、日本武ヤマトタケルノミコト)が東征の際、草薙の原で野火の難にあい天叢雲(あめのむらくも)の剣によって難を逃れ、はこの剣を「草薙の剣」と改名しました。このことからこの地は日本武尊の名に因んで「日本平」と名付けられたと言われています。賊を平定した後、この山の頂上に登り四方を眺め、富士山と駿河湾をのぞむその景観に感嘆したと伝えられており、山頂から北側山麓には「草薙」の地名があり、麓の草薙神社には日本武尊が祀られています。
山頂からは、全長1065メートルの「ロープウェイ」が、海蝕崖の絶景“屏風谷”の上空を渡って久能山東照宮まで結ばれています

昼間のロケーションも素晴らしいのですが、特に夜景は素晴らしく、頂上から見た清水区側です。箱庭のような清水と三保、駿河湾越しの対岸左は富士市、右は沼津市です。

静岡市葵区・駿河区側の夜景です。





新日本三景の一つにされている静岡市清水区の三保の松原は万葉の昔から数々の歌に詠まれた白砂青松の景勝地として有名です。海岸線の「黒松の松原」越しに、また駿河湾越しに富士山や、伊豆の連山を望む眺めは雄大で素晴らしいものです。そのほぼ中央にある「羽衣の松」は、樹齢600年に達する黒松で、天女が舞い降りて“羽衣”を掛けたという伝説が残ってます。この松は御穂神社の御神木となっており、羽衣の松から神社まで続く松並木は「神の道」と呼ばれています。




羽衣伝説発祥の地で開催される「たきぎ能」は、天女が舞い下りたと伝えられる「羽衣の松」を鏡板に、白砂青松の三保の松原、目の前に広がる駿河湾、伊豆の山々を借景に演じられる日本随一の薪能です。波のささやきを聞き、潮風を感じながらの三保羽衣薪能を楽しめます。
 ・・・天女の登場、羽衣を奪う白龍、返すように懇願する天女、舞いながら帰っていく天女、残される白龍・・・
いにしえの物語の再現は、自然の光や波音により、鑑賞する人に新しい感動を呼び起こしてくれます。



鎌倉時代に由比倉沢の海中から網にかかって引きあがられた薩堙地蔵をこの山に祀ったので、それ以降薩堙山と呼ばれています。上代には岩城山と称し万葉集にも詠まれています。
さった
峠越えの道」は江戸時代以前は崖下の海岸を波の寄せて引く間合を見て岩伝いに駆け抜ける東海道の難所であり、途中で親子が離ればなれになってしまう“親不知子不知”の場所と言われていました。
江戸時代には三つの道があり、崖下を駆け抜ける道を「下道」といい、明暦元年(1655)に朝鮮通信使のために崖に道を切り開き、これを「中道」といいました。その後内陸から山中に道を付け、これを上道としました。下道→中道→上道の順で人々に利用されてきましたが、幕末の安政の地震で周辺の海岸線が隆起し、人々は下道を利用して興津〜由比間を行き来する事が出来るようになりました。





清水区指定名勝です。今から八百年前真言宗の修行の場として開かれたこの滝は、一般に「伊佐布の滝」と云われ、古くは「北滝」とも呼ばれています。江戸時代後期、山梨稲川により黄龍湫と詠まれ、黄龍が天に昇っていくかのように滝が天から落ちる様は周囲の自然とも調和し豪快な景観を見せています。高さ10メートル幅 2メートルで、清水では最大の滝です。
滝の側にある「北滝不動尊」は、村人が干ばつに際し雨乞いをしたり、井戸水が出ない時に祈願したと伝えられています。





旧清水市制50周年の記念事業として昭和63年に完成した清水船越堤公園は、四季折々の自然を生かした素晴らしい公園です。富士山と駿河湾を望む景観の地に、出会い・ふれあい・自然は友だち、をテーマに四季を通 じて楽しめる自然公園、船越堤公園です。

船越堤公園の遊歩道沿いにはおよそ1000本の桜があり、一番の見どころは夫池(おいけ)からお花見広場に続く穏やかな上り坂。左右から小径を包み込むように咲き乱れた桜と眼下に広がる海や町並みとの調和は最高です。イベント広場、野外ステージ、茶室、トリム広場、天文台などがあり、野外ステージと茶室は、有料で貸し出ししています。




最後の元老西園寺公望公が、晩年を過ごした興津の別邸を忠実に再現したものです。坐漁荘の名の云われは中国の呂尚(太公望)の故事に因んでいます。大正八年に完成して以来、昭和十五年、西園寺公が92歳でなくなるまで22年間の住居でした。また、当時国の重臣が坐漁荘を訪れ政治について西園寺公に相談した事が多く「興津詣で」と言われてました。2003年1月から忠実に復元作業を進めてきた木造二階建ての京風数寄屋造りで床面積は約300平方メートルで、西園寺公が好んだ竹の欄間の造作など、優れた職人技が凝縮された建築物となっています。









清水日本平運動公園球技場は、平成月に「サッカーのまち清水」のシンボル的な競技施設として完成し、同年、静岡県で行われた全国高等学校総合体育大会サッカー競技のメイン会場として使用されました。全国高校総体などにおける清水勢の活躍や、本市をホームタウンにJリーグに参戦した唯一の市民球団「清水エスパルス」の人気にともない、当球技場を利用するサッカー関係団体等、多くの方々から観客収容席の不足が叫ばれ、平成月収容能力20,399人の本格的球技場として生まれ変わりました。日本平スタジアムは、サッカー専用の為、席とピッチとの距離が近く、迫力ある試合が楽しめます。天気の良い日には屋根の間から富士山を遠望できるなど開放感ある景観が特長です

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