法華三部経より
法華三部経から、私がいいなぁと思った経文を写してみました





善男子、汝、是の経は何れの所よりか来り、去って何れのところにか至り、

住つて何れの所にか住すると問はば、当に善く聴くべし。

善男子、是の経は本諸仏の室宅の中より来り、去って一切衆生の発菩提心に至り、諸の菩薩所行の処に住す。

善男子、是の経は是の如く来り是の如く去り是の如く住したまへり。

この故に、この経は能く是の如き無量の功徳不思議の力あって、衆をして疾く無上菩提を成ぜしむ。


第一に、是の経は能く菩薩の未だ発心せざる者をして発心さしめ、慈仁なき者には慈心を起こさしめ、

嫉妬を生ずる者には随喜の心を起こさしめ、愛着ある者には能捨の心を起こさしめ、

諸の慳貪の者には布施の心を起こさしめ、驕慢多き者には持戒の心を起こさしめ、

瞋恚盛んなる者には忍辱の心を起こさしめ、倦怠を生ずる者には精進の心を起こさしめ、

諸の散乱の者には禅定の心を起こさしめ、愚痴多き者には智慧の心を起こさしめ、

未だ彼を度すること能はざる者には彼を度する心を起こさしめ、

十悪を行ずる者には、十善の心を起こさしめ,有為を楽ふ者には無為の心を起こさしめ、

煩悩多き者には除滅の心を起こさしむ。

善男子、是れを是の経の第一の功徳不思議の力と名く。


若し衆生あって是の経を聞くことを得て、若しは一転、若しは一偈乃至一句もせば、

百千萬億の義に通達し已つて、煩悩ありといえども煩悩なきが如く、

生死に出入すれども怖畏の想なけん。

諸の衆生に於いて憐愍の心を生じ、一切の法に於いて勇健の想を得ん。

能く無上菩提の重き宝を荷ひ、衆生を担負して生死の道を出す。

未だ自ら度すること能はざれども、已に能く彼を度せん。

(無量義経十功徳品第三)



斯の経を謗せん者 若し其の罪を説かんに 劫を窮むとも尽きじ

この因縁を以って 我ことさらに汝に語る 無知の中の人にして 此の経を説くこと無かれ

若し利根にして 智慧明了に 多聞強識にして 仏道を求むる者あらん

是の如き人に 乃ち為に説くべし
 
若し人かつて 億百千の仏を見奉りて 諸の善本を植え 深心堅固ならん

是の如き人に 乃ち為に説くべし

若し人精進して 常に慈心を修し 身命を惜しまざらんに 乃ち為に説くべし (妙法蓮華経比喩品第三)




薬王当に知るべし 是の諸人等は 已にかつて十万億の仏を供養し

諸仏のみもとに於いて 衆生を哀れむが故に此の人間に生ずるなり


此の人は是れ大菩薩の阿耨多羅三藐三菩提を成就して

衆生を哀愍し願って此の間に生まれ 広く妙法華経を演べ分別するなり  


是の人は則ち如来の使いなり 如来の所遣として如来の事を行ずるなり


薬王、若し善男子、善女人あって 如来の滅後に四衆の為に此法華経を説かんと欲せば

如何してか説くべき この善男子善女人は

如来の衣を着 如来の室に入り 如来の座に座して

 而していまし 四衆の為に広く斯の経を説くべし

如来の室とは一切衆生の中の大慈悲心是なり

如来の衣とは柔和忍辱の心是なり 如来の座とは一切法空是なり

然して後に不倦怠の心を以って 諸の菩薩及び四衆の為に 広くこの法華経を説くべし

(妙法蓮華経法師品第十)
 



此の経は持ち難し 若し暫くも持つ者は 我即ち歓喜す 諸仏の亦然なり

是の如き人は 諸仏のほめたもう所なり 是れ即ち勇猛なり 是即ち精進なり

是れ戒を持ち 頭陀を行ずる者と名く 即ち是れ疾く 無上の仏道を得たり

能く来世に於いて 此の経を読み持たん者は 是れ真の仏子

淳善の地に住するなり 仏の滅度の後に 能く其の儀を解せんは

是れ諸の天人 世間の眼なり 恐畏の世に於いて

能く須臾も説かんは 一切の天人 皆供養すべし

(妙法蓮華経見宝塔品第十一)




仏諸の比丘に告げたまはく

未来世の中に若し善男子・善女人あって、妙法蓮華経の提婆達多品を聞いて

浄心に信敬して疑惑を生ぜざらん者は、

地獄・餓鬼・畜生に堕ちずして十方の仏前に生ぜん。

所生のところには常にこの経を聞かん。

若し人天のなかに生まれば、勝妙の楽を受け、若し仏前にあらば蓮華より化生せん。

(妙法蓮華経提婆達多品第十二)



我等来世に於いて 仏の所属を護持せん

世尊自ら当に知ろすべし

濁世の悪比丘は 仏の方便 随宜諸説の法を知らず

悪口して鬢蹙し 数数賓出せられ 塔寺を遠離せん

是の如き衆悪をも 仏の告勅を念うが故に 皆当にこの事を忍ぶべし

諸の衆落城邑に 其れ法を求むる者あらば 我皆其のところに到って 仏の所属の法を説かん

我は是れ世尊の使いなり 衆に処するに畏るる所なし

我当に善く法を説くべし 願わくは 我世尊の前 諸の来りたまへる十方の仏に於いて

是の如き誓言を発す 仏自ら我が心を知ろしめせ

(妙法蓮華経勧持品第十三)




又文殊師利、菩薩摩訶薩後の末世の法滅せんと欲せん時に於いて

斯の経典を受持し読誦せん者は、嫉妬・諂誑の心を懐くことなかれ。

亦仏道を学する者を軽罵し、その長短を求むることなかれ。

若し比丘・比丘尼・優婆塞・優婆夷の声聞を求むる者・辟支仏を求むる者・菩薩の道を求むる者、

之を悩まし其れをして疑悔せしめて、其の人に語って汝等道を去ること甚だ遠し、

終に一切種智を得ること能はじ。

故は如何、汝は是れ放逸の人なり、道において倦怠なるが故にということ得ることなかれ。

又亦諸法を戯論して諍競することあるべからず。

当に一切衆生に於いて大悲の想を起こし、諸の如来に於いて慈父の想を起こし、

諸の菩薩に於いて大師の想を起こすべし。

十方の諸の大菩薩に於いて常に深心に恭敬・礼拝すべし。

(妙法蓮華経安楽行品第十四)


文殊師利、是の菩薩摩訶薩如来の滅後に於いて

此の第四の法を成就することあらん者は、

此の法を説かん時過失あることなけん。

常に比丘・比丘尼・優婆塞・優婆夷・国王・王子・大臣・人民・婆羅門・居士等に

供養・尊重・讃歎せらるることを得ん。

虚空の諸天、法を聴かんが為の故に亦常に随待せん。

若し聚落・城邑・空閑・林中に在らんとき、人あり来たって難問せんと欲せば、

諸天昼夜に常に法の為の故に而も之を衛護し、

能く聴者をして皆歓喜することを得せしめん。

故は如何、此の経は是

一切の過去・未来・現在の諸仏の神力をもって護りたもう所なるが故に。

(妙法蓮華経安楽行品第十四)



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