賢治の童話の中で、ひときわ輝く『銀河鉄道の夜』
銀河のお祭りの夜、お母さんの牛乳をもらいに行って、気が付くと
銀河鉄道の列車に乗っていた、ジョバンニとカムパネルラ。
父親が漁か、何かでいない、母親は病気で、友達に
「お父さんがラッコのけがわをもってかえってくる」とひやかされると、
話そうとしても、心が冷えていくジョバンニ
カムパネルラだけは冷やかさないで、悲しそうに彼を見ています。
白鳥の停車場や河原を過ぎ、鳥を取る人が、ジョバンニたちの切符をうらやましそうに見ていると
この人の幸せのためになら、なんでもしてあげたいと思います。
その切符とはどこまでもいけるフリーパス
(それは唐草模様の地で十文字ほど何か書いてある
多分「南無妙法蓮華経」のお題目でしょう)
氷山にぶつかって沈没した船にいた人たちが乗り込んできて
カンパネルラがその女の子達と楽しそうにしていると
ジョバンニはまた寂しくなります。
でもジョバンニはこんなことを思います
「その氷山の流れる北はての海で、小さな船に乗って風や凍りつく潮水や
烈しい寒さと戦って誰かが一生懸命働いている。僕はその人に本当に気の毒で
そしてすまないような気がする。
ぼくはそのひとのさいわいのためにいったいどうしたらいいのだろう。」
燈台守がこういいます。
「なにがしあわせかわからないのです。ほんとうにどんなつらいことでもそれがただしいみちを
進む中のできごとなら峠の上りも下りもみんな本当の幸せに近づく一足ずつですから。」
「ああそうです。ただいちばんのさいわいに至るためにいろいろのかなしみもみんなおぼしめしです。」
青年が言います
さそりの火の話は『よだかの星』に似ています
「カムパネルラ、また僕達二人きりになったねえ、どこまでもどこまでも一緒に行こう。
僕はもうあのさそりのようにほんとうにみんなの幸いのためならばぼくのからだなんか百ぺんやいてもかまわない。」
「うん、僕だってそうだ。」カムパネルラの眼にはきれいな涙が浮かんでいました。
「けれどもほんとうのさいわいは一体なんだろう。」ジョバンニが言いました。
「ぼくわからない。」カムパネルラがぼんやり言いました。
「僕達しっかりやろうねえ。」ジョバンニが胸いっぱい新しい力が湧くようにふうと息をしながら言いました。
「僕もうあんな大きな闇の中だってこわくない。きっとみんなのほんとうのさいわいをさがしにいく。
どこまでもどこまでも僕たち一緒に進んで行こう。」
「ああきっと行くよ。・・・・(略)」
これは賢治の信仰心を表していると思います。
自らのひじを焼いて灯明とし、仏に供養した薬王菩薩のように。
全然知らない、鳥取りのしあわせをねがい、
みんなの幸せのためにならなんでもしたいというのは、
仏さま・菩薩の願い・こころだから。
賢治の生家は、質屋で金貸しも営んでいました。
貧しい人にお金を貸す、その生業が嫌で父親にやめてほしいとたのんでもいました。
父親は浄土真宗の熱心な信者でしたから、賢治は法華信仰を勧めますが、受け入れてもらえませんでした。
賢治は親友の保阪嘉内にも信仰を勧めますが、聞いてもらえませんでした。
大体、信仰を勧めて素直に聞き入れる人はめったにいないでしょう。
自分から求めるものでなければ。
しかし熱心でまじめな賢治は、自分が一番よいと確信した信仰を、自分の大事な人にも持ってもらいたかったのでしょう。
その中で、唯一理解しあえたのが、妹のトシでした。
トシは日本女子大を出て、地元の女学校の教師をしていましたが、結核で亡くなってしまいます。
最愛の妹です。
しかし、カムパネルラは、いつの間にかいなくなっていて、
ジョバンニはもとの丘の草の上で眼を覚まします。
辺りは騒がしくなっていて、子供が河に飛び込んだという。
カムパネルラが船から落ちた友達ザネリを助けてあがってこないのだといいます。
カムパネルラのお父さんも来ていてもう45分も見つからないからだめだろうといいます。
お父さん同士は幼馴染で、ジョバンニのおとうさんから電報をもらったからじきに帰ってくると、
カムパネルラのお父さんが言いました。
ジョバンニはいろいろなことで胸がいっぱいになって、速くお母さんのところへ帰ろうと
走っていくところで終わっています。
この作品が未完成なのか、どうかわかりません。
「みんなのほんとうのさいわいをさがしにどこまでもいく」という、
それはずっと続いていくのではないでしょうか。
それは手に入れるよりも求めて行き続けるところにあるような気がします。