魚島村営航路

 この地球上に様々な種類の船が存在しているが、幼少の頃から私、フェリーてんりゅうが最も愛して止まなかったのがフェリーである。愛媛、はぶ丸といった一連の今治-因島-尾道航路系のフェリーたちに狂っていたガキンチョの頃、その眩しいばかりの輝きに目を奪われ、最も食指をそそられなかったと言うか、はっきり言って一番どうでもよかったのが魚島村営の魚島-高井神-豊島-弓削航路だった。その最大の原因がやはり、このフェリーでなかった点であり、幼少時は特に純客船というものに対する興味が薄かったので、自分の島に出入りする船でありながらほとんど関心を示さなかったのである。そのせいで手元には写真をはじめ、資料というものが激しく存在していない。今から思えば何と愚かだったことか。なくなってからその価値に気付くという、最も悔やまれるパターンである。
 ちくしょー、悔しいぜ。どこにも言ってゆくところがねー。
 さて、燧灘の中央に浮かぶ魚島。かつては愛媛県で2番目に小さな村として独立した自治体の島であったが現在は平成の大合併により我が上島町の一員となっている。その旧魚島村が魚島本島と他島を結ぶ唯一の定期旅客船航路として開設したのがこの航路である。具体的には魚島から同じく旧魚島村の高井神島、旧弓削町の豊島を経由して旧弓削町弓削島に至る航路であり、後に快速船「ニューうおしま」が就航した折に旧因島市の土生まで延長されて現在の航路形態となった。開設以来ずっと旅客専門の客船航路であり、これまでフェリー等の車両を航送できる船舶が就航したことはなく、我々が幼少時代からずっと1日4往復を堅持している。以前は全便が豊島に寄港していたが、いつの頃か上下2便ずつしか同島には寄らなくなり、それと先述の土生への延長が航路の歴史上における数少ない変化と言える。無論現在は先述の平成の大合併により旧魚島村が上島町化している関係で、上島町営航路として運営されている。

「うおしま」
本航路における最初の鋼鉄旅客船である。小さな客船でありながら異様に船足が速く比例するように引き波が大きかったことが強く印象に残ってるね。この写真が撮影されたのは1978年頃だと記憶しているが、当時既に後継船「第二うおしま」がデビューした後であり、予備船任務で弓削に姿を現した時に撮影したものと思われる。ちなみに私に乗船経験はない。近寄ってまじまじと見た記憶もないのだ。スーパー大後悔。ホント、愛媛たちの影に隠れて、ここの航路、ガキンチョの頃は興味持てなかったから。で、そんな本船の終末なんだが、後述の「第三うおしま」が建造された際に引退し、売船されることなく魚礁として沈められたらしい。

「第二うおしま」
本航路鋼鉄客船中で文字通り2番船の「第二うおしま」であるが、私にとってはシリーズ中最も馴染みがあるのが本船だ。レーダーも装備され、国の離島補助がガンガン投入されて充実した装備の船となっている。写真は1992年に沼隈町で撮影されたものだが、何でそんな所に本船がいたかと言うと、実はこれ、もう事実上廃船となった姿であり、船籍もなく書類上はスクラップという、解体を待っている姿なのである。同年に快速船「ニューうおしま」が建造されたため、それまで「第三うおしま」(後述)の予備船となっていたのが、その任を解かれたものであり、写真をよく見ると船首のマストからはマスト灯が撤去されており、本船がもはや「船」ではない事実を垣間見ることができる。

「第三うおしま」
離島公営航路船として「第二うおしま」以上にジャブジャブに公の補助金が投入され民間と比較してはるかに上級の装備を持った船として生まれてきた鋼鉄船の3番船であり、シリーズ中私が唯一乗船経験がある船である。ちなみにそれはフェリーとねと豊島に釣りに出かけた時であるが、今のところ私がこの航路を利用したのはその1回限りとなっている。1992年の「ニューうおしま」投入まで主船として活躍後1998年頃に岩城島の明和工業で解体されたみたいである。なお「ニューうおしま」投入後に航路が因島まで延長になったわけだが、本船が代理で出動する時はその船足の差から弓削-因島間は省略されていた。その後主船ドック入りの際は船足のある弓削海上タクシーがチャーターされ全区間トレースするようになり、予備船維持費の問題もあり快速船全盛時代に引き取り手もなく船齢が若いながらも天へと。

付録 ニューうおしま建造時写真

1992年に旧沼隈町の神原海洋開発で建造中の「ニューうおしま」の姿である。船体は高価な総アルミであり、高度な溶接技術が要求された。一番上の写真はちょうど基になる船体が組みあがったところであり、既に溶接熱による歪み取りも終了している。溶接ビードも磨きこまれ、アルミ船の手間の深さがうかがい知れるところだ。

ほぼ完成した状態の塗装直前の姿である。建屋から引き出されており、この状態で塗装が施された。塗装後にレーダー等の露出小物艤装品が取り付けられ、この場所からベルトで吊って進水させた。こうして1992年に颯爽とデビューした本船だったが、僅か12年後にはとっとと売船されてしまうのだ。長期使用に耐えうるようにするため高価なアルミボディーとしたのに、平成の大合併の折、国から出された、まやかしお買い得幻借金、合併特例債に踊らされた旧魚島村のバカ役人たちが愚かにも代替新造船を建造してしまったのだ。しかも、合併後上島町となってから、この1億6000万以上もした本船を全く売船努力をすることもなく全て他人任せで、たった12年落ちの本船を、たった950万円で売り飛ばしてしまったのだ。町民の貴重な財産である高価な本船はバカな無能役人のためにドブに捨てるような値段で処分されたと言ってよい。そして、無知な役人相手に本船を破格の言い値で手に入れることができた神戸の業者は、早々に再売船しタナボタの如くアブク利益をあげた。

「ニューうおしま」
1992年旧魚島村が従来の鋼鉄旅客船に替えて建造した初の滑走タイプの快速船であり、常石造船系列の神原海洋開発で建造された。何と言っても本船は、総アルミ合金製ボディのスーパー高価船であり、ここでも公営離島航路補助名目の税金がガンガン注ぎ込まれ、ついた予算はたっぷり全部使い切れーっ、とばかりの「第三うおしま」を遥かに超える税金ジャブジャブシップだ。2004年まで活躍したが、その後強引に新造船「ニューうおしま2」が建造されたため、当面活躍を続けるという思惑を裏切りさっさと処分されてしまった。で、利殖目的の神戸の業者に売却された本船は速攻で転売され関門地区で旅客船業務を展開する関門汽船に席を得ることになり「牛若丸」と改名の上、関門海峡遊覧船として使用されるも、それも僅かな期間で現在(2007年3月)は小豆島に係留され新たな買い手を待っている状態だ。

「ニューうおしま2」
平成の大合併のばらまき借金、合併特例債を当て込んで旧魚島村が合併直前ギリギリに建造した滑走型快速船タイプ客船の2番船であり、現在の魚島-因島航路の就航船である。