三原観光汽船

三原観光汽船。
私がこの会社の存在を知ったのは1978年のことだ。
当時同社は瀬戸田-三原航路でフェリーと高速船の運航を行っていたが、現在フェリーの方は沢-須波間の運航となり、生口島と本州を結ぶ必要最小限ショートカット航路の色合いが濃くなっている。
当時、瀬戸田-三原間を専門に運航していた船会社は三原観光汽船、マルト汽船、ほうらい汽船の3社だったのだが、その3社において、瀬戸田-三原間という短い航路においてフェリーだけで3隻も走らせていた三原観光汽船は、 いわゆる最大手と言った立場であり、そんな同社の優位性から、ほうらい汽船が異様に弱小で貧乏くさく見えるなって、子供心に感じていたものだ。
まあ、それでも、その頃は両者とも何とか共存していたのだが、後に三原観光汽船がフェリーをモータリゼーションの流れに合わせた沢-須波へと変更したことにより、瀬戸田-三原のまま取り残されたほうらい汽船フェリーは完全に車両客をそちらに奪われ、最終的に崩壊に追い込まれた。
そんな背景の中、私とフェリーとねは、ほうらい汽船が抱いているであろう三原観光汽船への感情を思い、それ以来ほうらい汽船のことを「怒りのほうらい汽船」呼称するようになったのが懐かしい。
まあ、ほうらい汽船が本当に怒っていたかどうかは正直確かめたわけでもないし、定かではないのだがね。
で、今回の当コンテンツだが、現在既に消えた船舶たちのみを扱うこととするから、現在の三原観光汽船の船舶を見たい人は努力と根性で実物を見に行ってくれ。

フェリー

高速船

なるたき

私が三原観光汽船のフェリーと言われて真っ先に思い浮かべるのはこの「なるたき」だ。 1978年当時、私にとってのフェリーの形状の基準は愛媛シリーズなど一連の備南船舶工業製にあったので、本船を初めて目撃した時のインパクトはかなりのものであり、その異様に背が高く、のっぺりした外観は不気味にすら見えたのを強烈に記憶している。 写真は1979年三原において撮影したものだ。なお、本船のことは「タッキー」と呼んでくれ。

かたふじ

まるで瀬戸内海汽船の「えたじま」シリーズを思わせる特徴ある船尾形状が特徴の「かたふじ」。はっきり言っちゃうと、ファンの方には申し訳ないが、かっこ悪いと思う。って言うか、どうしてこんな船尾形状にする必要があったのか知りたいところだ。 それこそ下の「ふでかげ」のような船尾にすれば造るのも楽だと思うのだが、これに関して、当時の三原観光汽船首脳陣がどのような見解を持っていたのか今さらながら知りたいところだぞ。

ふでかげ

私的には歴代三原観光汽船フェリーの中で最も、まっとうな外観を持ったフェリーと言え、旅客デッキのサイドピラーが傾斜しているところがちょっと冒険してるかなーって感じ。 ところで「ふでかげ」と言えば1979年頃、ちょっとした謎があった。それが下に貼ってある緑の「ふでかげ」である。この緑「ふでかげ」は1978年三原港にて撮影したものであり、私はこれが真の「ふでかげ」であると思っていた。 ところが翌年1979年に瀬戸田で上の「ふでかげ」を目撃撮影し謎が炸裂した。「こ、このふでかげ、前見たのと違うぅ?」って感じにね。で、結論から言うと、この「ふでかげ」はどうも中古購入船だそうで、下の緑「ふでかげ」は大崎汽船から買ってきてから間もない頃の姿だそうだ。 船体各部の改造&塗装変更の後、上のような「正規ふでかげ」となったらしい。やはり、「同一人物」ということで間違いないそうである。 それにしても大きく外観の印象が変わる原因となっているのが「第十一さんよう」を思わせる船首側の高いブルワークであるが、それを大幅に削り取っている。これをやらないとそんなに使い勝手が悪かったのだろうか?この件に関しても今さらながら激しく知りたいぜ。 で、三原を去ってからの本船とは、私は1994年に佐世保の相浦で再会したのだが、やはりご多分に漏れず上部客室等が撤去された貨物フェリーとなっていたぞ。

フェリーすなみ

>本船は三原観光汽船のフェリー航路が沢-須波化された後に、予備船用として大崎汽船から買ってきた「ニューおおさき」であり、購入後レギュラーシップの「るり丸」「はり丸」にグレードを近づけるために客室内の大幅なグレードアップ工事が行われた。 他に、観光チャーター船としても十分耐え得る設備にしたいという意図も、このグレードアップ工事にあったものと思われる。現在のレギュラーシップとなっている両頭フェリー「しまなみ」のデビューに伴い、同社での予備船の使命を「るり丸」に譲り九州に売船されてしまった。 予備船ゆえ私はたった一度しか乗船のチャンスはなかったが、私はこの船にかなりの「味」を感じていたから、須波から姿を消した時は少しって言うか、かなりショックだったぞ。ちなみに、この写真は1991年須波で撮影されたものだ。

西日光

番号のない「西日光」。これが三原観光汽船の最初の高速船で、その後の番号付き歴代西日光シリーズの元祖だったのだろうね。 写真は1979年に三原沖で撮影されたものだが、この頃は既に本船は予備船になっていたみたいで、この写真も瀬戸内海汽船or昭和海運の代船として今治-三原航路に就航している時の姿である。賛否両論ありそうな外観だが、私がどう思っているかは皆さんのご想像にお任せしたい。

第二西日光

その番号が示す通り、どうやらシリーズの2番船と思われる本船だが、初代「西日光」とほぼ同様の外観をしており、同型船と呼べる位置に存在する船と言えるのであろうが、よく見ると細部はかなり異なっている。写真は1980年に三原で撮影したものだ。

第三西日光

150人乗りというキャパが自慢の「第三西日光」だが、その大きさから見て、恐らく定期航路船と言うよりも、各種団体チャーターを念頭に置いて建造された高速船と思われる。 写真は1979年に瀬戸田で撮影したものだが、確か当時、この大きなキャパをアピールしたチラシかポスターを見た記憶があるね。こんな船を建造して手駒として置いておくなど現在では考えられないことである。時代は変わった。

第八西日光

「第三西日光」に続いて本来ならここに「第五西日光」がくるはずなのだが、残念ながら私はそれを撮影していなかったのある。思いっきり後悔の涙を流そうではないか。そんなわけで、いきなり「第八西日光」にまで飛んじゃうぜ。 外観はここにきて充実しており、瀬戸内海汽船の「マリンスター2」クラスに似た安定したものとなっており、比較的安心して見られるスタイルだよね。レーダーは青いフルノだぁ。 ところで「第五西日光」だが、恐らく抜け目ないフェリーとねがちゃんと確保していたと記憶している。よって本社の方に展示されると思うから、努力と根性で、そこで確認してくれたまえ。

第十西日光

「第十西日光」って、おい、これって「ホワイトドルフィン」じゃねーか。って突っ込みは当然予測されるところだが、実は、第十も第五同様確保していなかったのだぁ。 そんなわけで、「第十西日光」の現在の姿である「ホワイトドルフィン」を代用として展示させてもらうことにした。文句のある人はどこからでもかかってきなさい。私は誰からの挑戦も、たぶん、受ける。本船は三原観光汽船初の19トンクラフで、まさに「第三」とは好対照と言えよう。 で、三原観光汽船を出されて「ブルーオシャン」と改名の後、塩飽諸島方面で活躍していたみたいだが、2001年に藤井氏の配下となり、塗装も船首部分が異なる以外「第十西日光」時代とほぼ同じイメージに戻ったんだ。

第十一西日光

オリジナル西日光のラストシップとなっているのがこの「第十一西日光」だ。無論現在は三原観光汽船に籍を置かないこととなっているが、今なお国内に留まり、売船後も塗装を変えず元気に頑張っているそうだぞ。

しゃるまん

これはもう一目でわかる通り、大型クルージング高速船と言ったものである。 晩年はJRとタイアップした、おさんぽクルーズなどに使用されていたことは記憶に新しいが、その図体の大きさ、設備等使用用途が特定のものに限られるなど、晩年は三原観光汽船の経営の足かせとなっていて、近年にとうとう売却されてしまった。 「第三西日光」とは明らかに別路線を狙った大型船だったが、やはり、いかなる路線でも時代は本船の維持を許してはくれなかった。写真は1998年にチャーターで因島土生沖に姿を現した時のもの。 でも、売却先は国内であり、現在もどうにか踏み止まっているみたいなので、何とか国内でもう一花咲かせて欲しい。なお、本船の塗装は現在、元今治高速船の「第十二かもめ」から転身した「第十二西日光」が守っている。

快速旅客船

ガルーダ1号

三原観光汽船が瀬戸田-三原フェリー航路を沢-須波航路に変更するのに伴い、普通旅客便としての瀬戸田-三原間の需要の受け皿として走らせていた快速旅客船である。 島原観光汽船が「ガルーダ3号」という同様の形態の旅客船を走らせているのを見たことがあるので、恐らくこの「ガルーダ1号」はそこから買ってきたものと思われる。なお本船は現在は既にその姿はなく、三原観光汽船を出た後の詳細も不明である。