家老渡フェリー汽船

 因島の家老渡と我が弓削島の上弓削を結んでいるのが家老渡フェリー汽船だ。
 1973年に突然走り始めた印象のあるこの航路、当初は弓削島側の発着地は上弓削の他に引野も設定されており、それぞれの港に旗の掲揚ポールが設置され、弓削島側から利用する場合は利用者がその旗を揚げるというユニークな仕組みで、それを揚げると家老渡からフェリーが走ってくるようになっていた。つまり、不定期だったということだな。ちなみに私の記憶ではその揚げる旗の色は黄色であり、もしかしたら経営者が映画幸せの黄色いハンカチを意識していたのかもと、今更ながら推測させられる。恐らく家老渡から双眼鏡を覗いていたんだろうね。
 開業の翌年くらいから認可が下りたのかダイヤを設定したみたいで、旗揚げの廃止と共に引野の発着を中止したみたいだった。
 それから30年以上の月日が流れ、現在では弓削島と因島を結ぶ最短ルートとして一番のドル箱航路に成長した。
 弓削島の住人が本州に出る場合、殆どの者がこの航路を利用するが、これは最短ルートゆえの運賃の安さからだが、それでも距離の割にはかなり割高だ。はっきり言ってかなり儲けているぞ、この会社。もっと安くならんもんかのう。

第一きりしま。記念すべき第一船だが、既に売却され現在は新岡山港に常駐しており、塗装も船名も変更されていない。それにしてもこの船、大改造が施されており開業当時の姿と比較すると全く別の船である。船体は延長されフレームを残して外板やブルワークなど全てが更新され新品同様の状態となったがエンジンは換装されていないようである。で、現在岡山で何に使用されているのかは全く不明である。2005年7月29日、新岡山港にて撮影。

第二きりしま。開業当時から予備船として用意されていた船だろう。見ての通り殆ど搭載能力はない。私はこの船が航路を走っている姿は数回しか目撃したことがない。写真は1981年に家老渡港で撮影したものだが、これからしばらくして伯方島と大島を結ぶ小さな渡船業者に売却され、そこで働いていたみたいだが、いつの間にか姿を消していた。よって結末は不明だ。いずれにしても、もはやこの世に存在はしていないだろう。

第三きりしま。この会社は新造船は一隻もいないセコハン会社で本船も無論中古船だが、船体を延長工事を行った際、フレームを残して外板とブルワークの鉄板が全て取り替えられ新品同様の船体になった。写真は2005年の撮影だが、現在本船は完全なるチャーター専用船となっており、航路に出てくることはまずない。

こちらは1978年に撮影した、買ってきた当時の本船のオリジナルの姿であるが、あいにく写真が悪い。当時は後部にそれなりの大きさの客室があるのがわかるし、船体も短い。この頃は航路の就航船を務めていたが、後に買ってきた中古船が第五きりしまとして就航すると本船は予備船兼チャーター船となった。

同船を後ろから見たところ。客室は両サイドに僅かに残されただけで、車両甲板が船尾まで拡張されているのがよくわかる。ちなみに本船の建造そのものは1967年頃と推定され、かなりの船令だが、更新された船体に積み替えられた主機により、まさに新造船同様となって現在に至っている。2005年撮影。

第五きりしま。1979年頃に買ってきた船で、それから約四半世紀に渡って航路の主船を勤めたが、現在は予備船となっており、他社の航路船がドック入りの際などチャーターで出向き代船を務めたりしている。本船も船体延長工事を受けており、フレームを残し完全に船体は更新されており、上部構造物以外は、はっきり言って新造船同様である。

1981年当時の本船の姿。船体延長工事は完了しているが、車両甲板後部に客室を増設するなど、その後もかなりの手が加えられているのがわかる。家老渡港にて。

第八きりしま。1981年頃に買ってきた船だが、本船は最初から工事車両運搬需要に主眼を置いたチャーター船としての使用を前提に購入されたもの。本船も他のフリートと同様の処理を受け搭載力の増大と新品化が施されている。2005年撮影。

1981年に撮影した本船が買われてきたばかりの頃の姿。本船は第三きりしまと基本的に同型だが購入時点で既に客室はなかった。この姿で新造されたのか客室を撤去されていたのかは定かではない。

二代目第二きりしま。現在の航路就航船である。元は因島市営金山-赤崎航路船だった第一いんのしまである。因島市から同市の三光汽船に売却された本船は重井-尾道航路に就航した後、金山-小漕航路に移動。最後は三光汽船が因島市から引き継いだ金山-赤崎航路に復帰していた。そして1997年頃に家老渡フェリー汽船に売却され船体更新とエンジン換装の大改造を受けた。写真は現在の姿。

左は船体更新工事などの改造を受け家老渡フェリー汽船の一員となった頃の同船。この頃は船尾にランプを設けておらず、もっぱらチャーター船として活躍していた。上の現在の姿と見比べて頂きたい。現在はバウスラスターも装備され弓削側は増設された船尾ランプで発着する。

家老渡フェリー汽船に移る前、三光汽船時代の本船の姿。名前は第一いんのしまであるが、現在は上部構造以外他は全くの新造船同様だという改造がよくわかる。本船が建造されたのは1965年であるが、この改造により少なくともあと10年は生き延びるものと思われる。

左は現在の姿を後部から見たところ。本船の投入により弓削島民はバックで車を載せなくてよくなり、大きな恩恵を受けることとなった。

そのほかにも

ここまでのフリートに加えてほんの短期間航路に就航した謎のフェリーが存在する。第一きりしまと第三きりしまの間に相次いで就航したここの写真の二隻。1974年頃だっただろうか、まず下の写真の船を家老渡汽船がどこからか買ってきたみたいで、船名をやしまと言った。その時生名村村営生名-土生航路には上の写真(当時の船名わからず)が就航しており、家老渡汽船は買ってきたやしまを一旦家老渡-上弓削航路に就航させたものの、どういう理由があったのか、すぐに引っ込め放出、上の写真の船と交換したのだ。生名村と家老渡汽船の間にどんなやりとりがあったかは不明だが何らかの理由で双方が船の等価交換か何かで合意したみたいで、これにより家老渡汽船は上の船を正式に航路に投入(確か名付けた船名は第三きりしまだったと思うが)、一方で生名村は下の船(やしま)をいきなと改名して生名-土生航路に投入した。それで上の写真はその後、家老渡汽船が同船を伯方フェリーに売却した後の姿で伯方島北浦-生口島五本松航路に就航時の姿で、船名がはかたと改名されており、本来車両甲板後部にあった客室を上のデッキに移設している。下のいきなは1989年に予備船となったが2002年まで生名村村営に在籍し続け、笠岡のセコハン業者藤井氏に売却された。なお、はかたのその後は不明だ。双方とも写真は1979年の撮影である。