因島汽船が因島-今治間の航路を運航していたのに対し因島商船は因島-尾道間の航路を運航していた。しかし、因島汽船がフェリーを運航していたのに対し因島商船は旅客船と高速船での運航だったので、私としてはかなり地味な航路の印象を持っていたんだ。
昭和30年代頃は木造旅客船、そして、昭和40年代には鋼鉄旅客船と小型水中翼船を主に同航路を運航していたそうだが、昭和50年の山陽新幹線博多開業により本州の玄関口が尾道から三原に移った関係で急激に衰退した。
私には水中翼船が走っていた記憶はないが、幼児時代、多少の木造旅客船と鋼鉄旅客船が土生の港にいた記憶は僅かに残っている。しかし、無論写真などの資料は皆無である。
よって、ここで紹介できるのは昭和53年頃からの写真で、この頃は三原に主役を奪われ航路としての華やかさも失った後であり、昭和58年12月の因島大橋開通時には早々に航路自体が廃止になったこともあり、手持ちの写真も非常に少ない。
余談だが、昔因島公園に高速船にバトンタッチして引退した因島商船の小型水中翼船が展示してあった記憶がある。確か、白と赤の船体だったと思うのだが確証はない。
「第五はぶ丸」
私がカメラを扱える頃には既に因島-尾道航路には客船は2隻しか残っておらず、その2隻が併走する愛媛汽船のフェリーの合間をぬって走るような感じだった。所謂、そのフェリーと高速船を補完するといった立場であり、本当に地味な存在だった。そんな2隻でも「第五はぶ丸」は結構頻繁に乗った記憶がある。本船は昭和58年12月の因島大橋開通後航路を引退し日立造船社員を運ぶ通勤船などを行っていたが、日立造船の因島新造撤退により瀬戸田運航(有)に移り、同じく因島大橋開通時に廃止になった尾道瀬戸田フェリーの尾道-瀬戸田航路を引き継ぎ旅客船としての最後の活躍を見せた。その後同社の快速船化により廃船となり、長い間旧山陽造船の桟橋に係留されていた。昭和54年撮影。
「鯉城」
「第五はぶ丸」のランニングパートナーとして活躍した。こちらの方も無論乗船経験はあるのだが、今一つ記憶が薄い。鯉城と言うのは広島城の別称だが、西の広島から離れた備後を走る船にこの名がついているところからして、もしかしたらこの船、広島方面から因島商船が買船してきたものかも知れない。それを船名変更せずに走らせていたと。なお、この船は「第五はぶ丸」と違って航路廃止後すぐに姿を消したので、かなり早いうちから転売話が進んでいたのだろうね。昭和54年撮影。
(後日談-orange8さまの情報によると本船は芸備商船の宇品-是長航路船だったそうで、やはり広島圏の船だったことが明らかになった)
「第三ちどり」
写真は昭和54年の撮影だが、この頃本船は既に予備船となっており、私も本船が航路を走る姿は殆ど見たことがないまま終わった。昭和55年に新造船第七ちどりが建造された関係で、玉突きで「第五ちどり」が予備船となったため売却された。ちなみに本船の向こうに見えているのは僚船の客船「鯉城」である。
「第五ちどり」
写真は昭和55年の撮影で、既に「第三ちどり」にかわって予備船となっている姿である。今治高速船のところで触れたが、本船も三保造船製でたくさん存在する「第一かもめ」タイプと同型であるが、外観的にはマストの形状などが洗練されており、こちらの方が私的にはカッコいいと思うぞ。これでかもめ塗装ならさぞやお気に入りの船になると思うのだが。
「第六ちどり(旧塗装バージョン)」
本船も「第一かもめ」シリーズの一員であり「第五ちどり」とは殆ど相違点がない。しかしまあ、細かく見れば違いはあるのだが、その中でも最もわかりやすいのが後部にある排気口で、「第五ちどり」が丸形状のパイプだったのに対し、本船は四角形に加工されたパイプが使用されていた。私的にはこちらの方が好きで、後にも先にも数ある瀬戸内海の高速船の中で、排気口に四角いパイプを使用していたのは私が知る限り本船だけである。それで本船は昭和55年に新造された「第七ちどり」に合わせるように塗装が変更されたのだが、この写真は変更される前のオリジナルの姿である。
「第六ちどり(新塗装バージョン)」
私的には殆どセンスを疑う塗装と言っても良いと思っている。しかも「第七ちどり」に合わせて塗装変更するにしても、実は第七のそれはライトグリーンであり、こちらはなぜか暗い緑であった。因島商船首脳陣が何を考えていたのかはわからないが、当時このカラーを肯定する意見を私は一度も聞いたことがない。ところで本船に与えられた6という数字。当時は5の次は7というのが慣例だったので非常に珍しかった。ちなみに多いパターンは1、2、3、5、7、8、10といった流れで、4と9は縁起の面でどこの船会社でも100%外されてると言ってよい。しかし、それとは別に6も船のシリーズ番号としてはあまり使われていなかった。なぜなんだろうね。
「第七ちどり」
昭和55年に建造された因島商船最後の新造船である。何をイメージして塗装を決定したのかはわからないが、これもどうかなと思ういでたちである。撮影は本船がデビューしたばかりの頃である。本船も昭和58年の因島大橋開通に伴う航路廃止で就航僅か3年で引退するが、その後今治高速船に移り、カッコいいかもめカラーとなり華々しく返り咲くこととなる。その際にレーダーも装着された。本船はこれまで紹介してきた一連の第一かもめタイプの拡大発展型で、三保の第二世代量産タイプと言ってもよく、その姿は各船会社に数多く見られた。
「第二ちどり」
ここで付録として紹介するのが、この「第二ちどり」である。その名前と姿からして恐らく「第六ちどり」が建造される前まで因島商船が所有していたものと思われるが結局確認はできていない。本船はどうやら愛媛汽船の「第一かもめ」がドックに入ったりした際代船として今治-大三島-木江・竹原航路を走っていたらしく、この写真でもサイドの行き先表示板がそのようになっている。所有も不明だが今治市内の個人だったのだろうね。恐らく、今治高速の「第三かもめ」「第五かもめ」がドック入りした時など、同じく今治高速の「第二かもめ」が尾道-今治を代走したと今治高速船のところで触れたが、その時「第二かもめ」の今治-井口航路に愛媛汽船の「第一かもめ」が入り、その「第一かもめ」の代理として本船が木江・竹原航路を走っていたのだろうと推測している。写真は昭和54年冬今治港にて撮影。