このように麻雀が競技として認識され、ノーレートでプレーされてゆくのは大いに喜ばしい。しかしこのようなノーレートゲームにおける勝利感も、それだけではあくまで精神面の話である。しかしプロ(フェッショナル)とは、専門とするゲーム・スポーツを行うことによって収入を得る存在である。
そこでアマチュアゲームに金銭がともなうことは基本的にない以上、麻雀が囲碁・将棋的な意味でのプロゲームとして、あるいはプロプレーヤーが存在するためにはプレーの結果によって何らかの形で金銭的な授受が発生する必要がある。
囲碁にしても将棋にしても、プロプレーヤーはゲームに勝利する事によって賞金を得る。麻雀のプロにしても同様で、プロとしての金銭授受は順当に考えればスポンサー企業による賞金提供制度によると考えられる。
しかしここに大きな問題がある。プロの試合に賞金を出すべきスポンサー企業が、立直一発裏ドラ的な偶発性に充ちたゲームに対し、囲碁・将棋的なゲームに提供しているのと同様な発想に基づく賞金を提供するとは極めて考えにくい。
もちろん話題性があれば宣伝になる。その話題性に対してなにがしかの賞金提供がなされる可能性はある。しかしそのような話題性に対する賞金を得ることによって収入を得たりマスコミに登場したりしても、一般ファンは囲碁・将棋のプロに対すると同様な意味での麻雀プロとは思わない。
賞金を出す企業にしても、話題性に着目しての賞金提供であって、麻雀プロの対局に賞金を出している感覚は希薄かも知れない。これではプロといっても、麻雀プレーヤーではなく麻雀タレントというレベルの話である。
もちろん社会的な認識がどのようであっても、金銭的に充足さえすれば満足と言う考えもあるかも知れない。しかし囲碁・将棋のプロはスポンサー企業による賞金等により収入を得るだけでなく、専門プレーヤーとしての社会的な地位という精神的充足感も得ている。
少なくともプロプレーヤーとはそうあるべきもので、単に金銭面さえ充足していれば良いというのであればジャンブル(賭け麻雀)に専念していればいい事になる。では社会的にプロゲームと認識されるべき競技麻雀とはいかにあるべきであろうか。
麻雀は互いの手牌・ツモ牌などゲーム自体が不可知性を内包する。その不可知性により生じる偶然性が、このゲームが成り立つ基本要素である以上、これを排除する事はできない。しかしこの基本要素以外の偶然性は排除可能である。
いうまでもなく一般の麻雀は“競技”ではなく、楽しさと意外性、すなわちスリルとサスペンスを求めてプレーされている。そこで立直一発・裏ドラ・槓ドラ等に代表される偶発的なルールが多々採用される。
もとより少なくとも競技麻雀と称する麻雀では、このような偶発的なルールは採用されていない。しかし競技としての麻雀はいかにあるべきか、プロゲームとしていかにあるべきかという観点から考えた場合、ルールに対しての認識がそのようなレベルに止まっているとすれば、いささか不十分と言わざるを得ない。
裏ドラ・一発という新規偶発ルールにとどまらず、伝統的に採用されているルールの中にも、天和・地和・嶺上開花・海底自摸和・牌底放銃等の偶然役が存在する。また王牌という、不可知性を高めるだけでゲーム的には無意味な残留牌が存在する。
また連荘というルールによって、結果的にA卓とB卓では対局数が異なるような状況が生じている。さらには競技であれば対等な立場で対局すべきプレーヤーが、荘家(そうチャ=親)と散家(サンチャ=子)に別れて対局している。同じアガリでも親の得点は五割増しとなる。何かにつけてダイスを振って事を決める。まさに丁半賭博における胴元と張り方を彷彿とさせる。
このようなルール的に排除可能な偶然性、あるいは競技として不自然と思われるルールを内包したままで、麻雀を社会的にプロゲームと認識させよう、競技麻雀を育成して行こうなどと考えるのは本末転倒と言わざるを得ない。
すなわち今後、麻雀をプロゲームさせて成長して行こうとするならば、プロ団体を結成してプロプレーヤーと称する存在をたくさん誕生させたりすることに意を注ぐのではなく、麻雀が有する本質的な不可知性以外の偶然性、不自然性について考え直すところに始まると考えられる。
もとより麻雀にはこの他にもギャンブルに由来するプラスマイナス偏重の成績評価、プロプレーヤーそのものの技量、あるいは競技麻雀というものをプロプレーヤーがどのように認識しているかなど問題は山積している。
問題点としてここに挙げたルールはもとより、これ等の諸問題をなおざりにしたまま、麻雀をプロゲームとして社会的に認知されることを期待するのは百年河清を待つが如き発想と言わざるを得ないのである。
−完−
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