Treatis 論考

     (7)日本麻雀の特質と展望 <7>勝利感


 あらゆるゲームは目的をもって行われる。逆に言えば目的のないゲームは存在しない。ではあらゆるゲームの目的は何かといえば、それは端的に言えば勝つことにある。ならば、ゲームにおいては勝ちさえすれば目的が達成され、それによって勝利感を得ることが出来るのであろう。もとよりそれは行われるもの、あるいはその形態によって異なる。

 たとえばチンチロリンや丁半のような偶然性に強く依拠するゲームにおいては、或る晩、連戦連勝したとしても、“天才だ”、“神技だ”といって賞賛されることはない。“いやぁ、今日はツいてましたね”で終わりである。これではいくら勝ち続けても、それだけでは勝利感を満喫することは困難である。そこでこのようなゲームにおける勝利感は、金銭の取得という形で補強されることになる。

 逆に囲碁・将棋など、ゲーム自体が不可知性を有していないゲームにおいては、プレーヤーの能力の差が勝敗を決する。となれば勝つことが相手より力(能力)が上の証明であり、そこに金銭等がともわなくても勝利感を満喫することができる。

 では麻雀においては、この勝利感はどのような点に求められるであろうか。たとえば某プレーヤーが徹夜で家族・知人とノーレートで麻雀を楽しんだとする。もとより親しい者同士によるゲームであるから、楽しいことは云うまでもない。

 しかし前述したように麻雀は偶然性と技量性が混在するゲームである。500、あるいは1000のゲーム数をプレーすれば実力差は統計上、明らかになるといっても、短期間では消化不能である。ましてや短期的には統計上の揺らぎに左右される以上、上級者が勝利するとは限らない。そこで短期戦における勝敗の結果=実力差とは互いに思いにくい。

 そこで丁半バクチほどではないとしても、或る日のプレーヤーの連勝も、やはり「いやぁ、今日はツイてますね」というレベルで終わりになりがちとなる。これでは勝利感も希薄なものにならざるを得ない。そこで短期的な状況の中で勝利感をより充足するには、必然的に金銭によって補強される事になる。これが麻雀において賭けが常態となっている一因と考えられる。

 ならばいかに日本麻雀がルールの変革によって競技性が増進したと云っても、ノーレートでは十分なる勝利感を得られることはないのであろうか。実はここに積み重ねられた記録によって実力が認められ、それが評価されることによって勝利感が満たされるという競技麻雀の発芽がある。

 各地に設立されているアマチュア団体等ではノーレートでゲームがなされ、それは記録によって段位を取得するという形で評価され、囲碁・将棋と同様の勝利感/充足感を満たしている。

 またコンピュータ時代を反映して麻雀もパソコン通信・インターネットなどを通じた通信対局が盛んに行われている。ここではコンピュータの特性がフルに生かされ、時に応じてすべての対局の個人データが公表される。1期ごとの記録、年間の記録等が詳細に公開されることによって、自ずからその実力は他の知るところとなり、プレーヤーに勝利感を与えている。ここに競技麻雀のレゾンデートルがあると考えられる。

以前へ  以降へ  目次へ