Treatis 論考

     (5)日本麻雀の特質と展望 <5>立直


 中国麻雀には、ローカルではあったが第1打牌による聴牌宣言(日本でいうダブル立直)は存在した。しかしゲーム途中における聴牌宣言は存在しない。すなわち立直は放銃一人払い・振り聴ルールとともに、日本麻雀の特徴的なルールである。

 揺籃期の先人の一人、司忠(つかさただし)も、「立直は中国麻雀の南方役であった。第1打牌で聴牌を宣言するのであるが、第1ツモ牌と手牌の入れ替えは不可であった」と述べている(「麻雀戯法」(s3・大阪日々新聞社刊)。この中国麻雀における立直(日本でいうダブル立直)が、日本麻雀における立直(途中立直)のルーツである事はいうまでもない。

 ではこの中国麻雀の立直が、いつごろ途中立直に変化したのであろうか。同じく揺籃期の先人、三島康夫(みしまやすお)は「途中立直はすでに昭和7〜8年頃、京都で行われていた」と述べている(「途中立直の起源」(日雀連機関紙「麻雀タイムズ」第10号(S24/2:20))。

 この論にしたがい、かつ誕生から京都で行われるまでの普及時間を1〜2年と考えれば、途中立直の誕生は昭和5〜6年と言う事になる。また麻雀伝来(大正中期)時点から昭和5年までの経過を考えても、一般麻雀で新規ルールが誕生する環境がそれ以前にあったとは考えにくい。となれば途中立直の誕生は昭和5〜6年と推測される。じっさいこの時期は放銃一人払いのルールの登場と軌を一にしている。

 すなわちこの当時、徐々に日本に根付いた麻雀が日本独自の風土のなかで変化するだけの土壌ができ、そこへ中国麻雀の立直(日本でいうダブル立直)の存在を知った誰かがこれを誤解したか或いは応用して採用し、徐々に普及していったとも考えられる。

 とはいえ当時は単に「聴牌したぞ」とか、「何か捨てるとアガるぞ」というような表現をしていた程度と思われる。同じく揺籃期の先人、杉浦末郎は、「昭和15年頃より、満州在住の日本人間で新體制(しんたいせい)という宣言用語で、途中立直が採用されていた」と述べている(「麻雀スピード上達法」(昭和29年・大阪屋号書店刊)。

 一説にこの新體制は、「手牌が聴牌という新しい體制になった」という意味といわれるが、いささか即断に過ぎると思われる。

 この当時、他にもいろんな宣言語が用いられたが、その中に「東亜(「麻雀・語源と歴史に強くなろう」(昭和49年・平凡社「Oh!」4月号)とか「大東亜(現在の立直一発に相当する)」という呼称があったたという(「手塚晴夫「南は北か」(平成元年11月刊)。

 この東亜、または大東亜は、当時喧伝された大東亜共栄圏の意を含むと解される。当時、日本はこの旗印の元にアジアに覇を唱えようとしていた。恐らくその意気込みが東亜 という宣言になって現れたと思われる。そこで先程の新體制も、東亜同様、大東亜共栄圏という新體制を意味していたと考えられる。

 とはいえまだこの時点では周辺ルール(宣言用語・手順の統一・立直条件)の整備も無いマイナーな存在で、手順等も各グループによってマチマチであった。しかし第二次大戦後、爆発的に普及し、周辺ルールの整備が進むとともに第二次麻雀ブームの主役となった。

 ただでさえ門前清重視の風潮のところへこの立直が登場したため、門前志向はますます強くなり、門前での手作り・牌さばきに一層の工夫がこらされ、結果的に競技性の増進に極めて大きく寄与する存在となったと考えられるのである。

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