現在の日本麻雀において、門前清(メンぜんチン)は単に「手牌を1枚もチー・ポンしていない状態」を表すだけの意味となっている。しかし中国において門前清が発生した当初は一つの独立した役であった。
この門前清について、本邦 麻雀学の泰斗 榛原茂樹(はいばらしげき)は「20世紀初頭(明治30年代前半)、中国の華北地方で誕生した役である。摸和は大門前清として加・100符、栄和は小門前清として加50符で採用されていた」と考証している(「門前清について」(麻雀タイムズ第3号S24/2:20)。
中国麻雀には古今を通じて一翻縛りという規制など無く、アガリへのスピードが大きくものを言う。当然、手牌を一枚もチー・ポンしないでアガリきるというのは至難である。そこでチーポンが多用される。この副露牌(フーロハイ=チーポンした牌)は、現在の日本麻雀では、プレーヤーの右サイドに公示される。
しかし中国古典麻雀では、各プレーヤーの手牌の前方(壁牌と手牌の中間)に副露された。そこで1回もチーポンしていなければ、自己の門前には何も存在しない。そこでそのような状態を「門前が清(きよ)らか(門前に何もない)」と称し、その状態でのアガリを役としたものと思われる。
中国において麻雀の本場がどこであるかというのは難しい問題であるが、一般的には発祥地である上海近辺と考えられている。すなわち華北地方のローカル役である門前清は、中国麻雀主流の役ではなかった。逆に言えば中国麻雀には、門前での手作りという発想がなかった。そこで手作りにおいてはチー・ポン等の戦法が多用されていた。
しかしこのローカル役である門前清は、日本では伝来当初から中心的な役として普及した。そしてさらに全体的な和了役の昇格機運、いわゆるインフレ化に伴い、門前清は加符役から一翻役に昇格した。こうなると おのずから門前清は重視され、チー・ポンに頼らない門前での手作り・役作りに意が注がれる。また1雀頭4順子という牌姿を意味するだけであった平和(ピンフ)も、和了役の昇格機運にしたがって一翻役となった。
しかし門前清が摸和・栄和に関係なく一翻、そして平和(ピンフ)も一翻となれば 平和(ピンフ)を栄和すると門前清+平和で二翻となる。しかし摸和すると平和の一翻が消滅し、摸和一翻のみのアガリとなる。すなわち摸和より栄和の方が倍額の和了となり、全体的なアガリ役のバランスに歪みが生じる。
この歪みを調整するため、当時の識者間で「門前清栄和は一翻、摸和は両翻にしたらどうか」という提案がなされた。しかしこれでは平和のアガリの場合には良いとしても、それ以外の場合は得点が大きくなり過ぎてしまう。
そこでさらに、「平和と門前清摸和を両立させたらどうか」という提案もなされた。これは後世の自摸八(ツモはち)計算とは違い、自摸の2符も認めて22符の両翻とするものである。これなら「平和+門前清摸和」の得点は88点となり、門前清栄和の80点より大きくなる。しかしこの名案も?、「平和の原則に反する」として受容されることはなかった。
そして1929年、4月11日より数日間に渡って当時の主な麻雀団体の代表が東京丸の内の大阪ビルにあるグリル“レインボー”に集合し、ルール統一問題が話し合われた。このルール会議で「門前清摸和は一翻、門前清栄和は加10符」と決まり、現在に至っている。こうして門前清は摸和に限定されるにせよ一翻という扱いが確定し、その後のゲーム形態に大きく影響を及ぼす存在となった。
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