大正中期、麻雀が本格的に日本に伝来した当時、当然ながらルールは中国麻雀そのものでプレーされた。その中国麻雀においては、包(パオ=責任払い)の対象とならない通常のアガリは、「栄和(ロンホ−=出アガリ)、摸和(モホー=ツモアガリ)に拘わらず三家払い」というルールであった。しかし日本に伝来したのち、昭和5年前後から「通常の栄和は1人払い」というルールが採用され始め、昭和6、7年頃には全国的に普及した。※「栄和」は和製雀語
この栄和は1人払いというルールが、なぜ日本で登場してきたのか判然としない。しかし一説に“花札の八八(はちはち)というゲームにおける法度札(はっとふだ=大物手を完成させた場合、責任払いする事)というルールに由来するのでは”とも言われる。
たしかに花札には得点が2倍、4倍になるという大場(おおば)、絶場(ぜつば)というルールがある。これは日本麻雀の両ゾロ=場ゾロというルール(通常の和了には常に両翻がプラスされる)に酷似している。また三色同刻という役も、一部では立てサンシキなどと呼称されるが、八八ルールにも立て三本という役がある。
このような点から「放銃1人払いは、花札の八八ルールに由来するのでは?」という論説はかなり魅力的である。しかし現時点では断定できるほどの状況にはない。
また単純に「他人が放銃したのに自分まで支払うという事が日本人の国民性に合わなかった」とも言われる。真相は意外にこんなところかも知れない。いずれにせよこの放銃1人払いルールによって、放銃による失点はすべて自己負担となり、危険牌/手筋に対する検討性が一段と高まる事になった。
更に見過ごすことが出来ない重要なポイントは、これによってゲームの形態が連帯責任型から自己責任型に変貌したことである。
常に3人払いというルールでは、和了があればプレーヤー全員は常にそれに拘わる。すなわち放銃は必ず他家の失点を強いる。そこで俗に言う“他人へ迷惑となるような打牌”は他家との連帯/協調性という観点から控えられる事が強く求められる。
しかし放銃1人払いとなれば失点はすべて本人負担となる。そのため自己責任において攻撃的な戦法が選択される機会が多くなる。
すなわち連帯責任型から自己責任型へ変化するというゲームの大変革に繋がったこの放銃1人払いというルールは、日本麻雀において技量性・競技性が飛躍的に増進した三本柱の一つと考えられるのである。
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