それではこの長期的な観点からは、それなりの競技性を有するという麻雀のゲーム性は、中国において麻雀が誕生した当時から存在したのであろうか。
いうまでもなく麻雀は中国においてはギャンブルゲームの一種として楽しまれてきた。成立年代については諸説あるが、おおよそ西暦1850年前後に、馬弔を中心とした紙牌ゲームと、宣和牌を中心とした骨牌ゲームが融合して成立したというのが定説となっている。
当時のルールは非常に単純で、時代を経るにつれ徐々に複雑になってゆくことが見て取れる。当時のルールは定かではないが、日本麻雀揺籃期の重鎮であり、麻雀研究の第一人者と称される榛原茂樹(はいばらしげき)が考証した想定寧波規則によれば下記の様な概要であったのではないかという(昭27年1月、日雀連機関紙「麻雀タイムズ」掲載)。
A:符底
10符。
B:親子の比率
幺二(ヤオアル=1対2)。
C:計算
細算法(精算法)。サイド計算あり。
D:流局
九種九牌(対子があってはならず、連荘扱い)と荒牌(こうハイ=自然流局)の2種。
E:アガリ役
加0符=平和(符底のみのアガリ。延べ単も可)、搶槓
加2符=単張胡(純粋単騎和のみ)、嵌張胡(純粋嵌張和のみ)、辺張胡(純粋辺張のみ)・双ポン胡(純粋双ポン和のみ)
加4符=対々胡、嶺上開花、海底撈月、金鶏奪食
一 翻 =混一色、門風(圏風(場風)無し)
三 翻 =清一色
半満貫=地和(親の第1打牌で栄和)
満 貫 =三元和、四喜和(自風の刻子があば小四喜でも可)、九連灯、十三幺九(配牌で13種が一枚づつあるもの。雀頭不要)、十三不搭(配牌で13種がバラバラのもの。雀頭不要)。
F:和了放棄
錯吃、錯ポン、多牌、少牌
G:包
大三元、大四喜、清一色(四副露目が包)。
見た通り非常にシンプルなルールである。もとより不可知性を内包したゲームにおいては、不可知部分が大きければ大きい程、あるいはルールが単純であればあるほど技を発揮する余地は少ない。しかし目的が単に勝ち負けをはっきりさせたいギャンブルであれば、ルールは複雑である必要はない。逆に云えばルールはシンプルな方が望ましいともいえる。
しかし不可知部分が多いシンプルなルールであっても、情報が存在しないわけではない。そこで長期的には、そのようなルールであっても、判断力の未熟者と熟達者では成績にそれなりの差が生じたことは十分に考えられる。
では当時の中国麻雀では、初級者と上級者において、どの程度のゲーム数でどの程度の技量差が認められたのであろうか。その点については残念ながら判然としない。しかし当時のシンプルなルールから類推して、その技量差は1000ゲームレベルでプラス率45%から55%の間にあったのではないかと推測される。
下限・上限の数値が1000ゲームレベルで10%前後の差となれば、短期的に見た場合、技量差は画然とは顕れにくい。また不可知性・偶然性が高いので、情報の分析・判断面が希薄となる。そこで戦術論といっても、おのずから心理的な側面を強調した記述が中心となる。実際、当時の中国書には、「好調者の捨て牌をチーポンしてツキを持ってくる」とか、「敵の顔色を窺うのが大事」というような記述が目に付く。
麻雀が日本に伝来した後、このシンプルなルールがかなり複雑化した。しかし現在、日本麻雀がその不可知性ゲームの上限に近いと思われる数値を示すまでに成長したのは、単にルールが複雑化したためではない。それはルールの内容自体が整備され、より判断力=技量を必要とされるゲームに生まれ変わった為である。
では日本麻雀がより判断力=技量を必要とされるゲームに進化したのは、どのようなルールの変革によるものであろうか。その大きな柱は“放銃(ほうじゅう)一人払い”、“門前清(メンゼンチン)重視=立直(リーチ)の誕生”、“振り聴ルール=捨て牌の整理”の三つにあると考えられる。
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