第 3 章 日本流入期
大正中期時代、細々と流入した麻雀であるが、大正末期から昭和にかけて本流となって日本中に普及した。しかし先覚者の数も少なく、ルール、麻雀団体も乱立状態であった。
そして1928年(昭和3年)頃から各地に乱立していた麻雀団体が大同団結して日本麻雀連盟(以下、日雀連と)を結成する事が話し合われ、1929年(昭和4年)4月11日、日本の麻雀界の指導的立場にあるメンバーが、東京駅前の大阪ビル内にあるグリル“レインボー”に会した。これが世に言う「レインボー会議」で、現在の日本麻雀のルールの基本は、ほとんどこのときに決められたといっても過言ではない。
このレインボー会議で、「門摸和二翻、門栄和一翻」であった門前清が「門摸和一翻、門栄和・加10符」と決定された。他役とのバランスを考えても門摸和一翻は当然の事で、これ自体は問題がない。しかし門栄和は無翻とした代わりに加10符とした為、ピンフの摸栄得点がまた逆転してしまった。
表29 1929年(昭和4年)、レインボー会議の結果
門摸和 |
(20+2 )2×4=176 |
門栄和 |
(20+10) 2×4=240 |
副摸和 |
(20+2 ) ×4= 88 |
副栄和 |
(20) 2×4=160 |
第 4 章 自摸八計算
この逆転に不満な鎌倉在住の文士を中心としたグループが「門摸和一翻、門栄和・加10符」を前提とした上で摸高栄低となる方法を模索した結果生まれたのが、自摸八計算と呼ばれる方式である。
この自摸八計算とは、「平和を摸和した時に限り、自摸の2符を計算しない」というものである。これに従って得点を計算すると、子1人当りの支払い額が80点となる。
20(符底)×2(平和)×2(自摸)=80
そこでこれを“自摸和すると80点の得点となる計算”という意味で自摸八(ツモはち)計算と呼ぶ。ツモの2符が無いとなれば自動的にピンフが成立し、得点は下記(表30)のようになる。
表30 1930年頃(昭和5年頃)、自摸八計算
門摸和 |
(20)×2×2×4=320 |
門栄和 |
(20+10)×2×4=240 |
副摸和 |
(20+2) ×4= 88 |
副栄和 |
(20) ×2×4=160 |
※副露アガリについては、自摸八計算を適用しなかった。したがって副露和了についてはレインボー会議の結果(表15)と同じ(摸栄逆転)になる。
見てのとおり、門前アガリについては摸高栄低となる。しかしこの妙案も、「摸和しても2符つかなかったり、ピンフと自摸和が両立するなどは変則」という反論により、日本麻雀連盟では採用されなかった。
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