Rule 規則

    (26)包牌


 中国(中共)にも麻雀の統一ルールができたのはご存じの通り。その関連で麻将連合とか健康麻雀協会が中心になって、日本との交流戦も行われている。日中友好のために大いに結構なことには違いない。

 ただ正直云って、σ(-_-)は統一ルールにあまり食指が動かない。やればそれなりに面白いのだろうが、どうでもいいと思うような役があまりに多すぎて。

 しかしいずれにせよこのような日中交流のきっかけとなったのが、井出洋介氏が北京、南京や西安で開催した麻雀大会だという。その点で井出氏の功績は大きい。

 とはいうものの、日本人が中国で麻雀大会を行ったのは、昨日今日が始めての話ではない。昔も行われていた。昭和5年、天津(テンシン)で、そういう麻雀大会が行われた。これはそのときのエピソード。

 あるゲームで東家の切った索子を南家がどんどんチーポンして3副露。すると西家/北家もチーポンしあって、西家は筒子、北家は万子を3副露した。すると打牌の番になった東家曰く

 「包牌は、“4副露させたら責任払い”というのではなく、その精神は、“包牌を打ち出してはいけない”というところにある。そこで自分は包牌を打つような奴は絶対に許せない。しかし今、手牌はぜんぶ数牌だから何を打っても誰かの包牌となる。これは自分で自分が許せない。したがってこのゲームはここで打ち切りとするっ」
※当時のル−ルは、清一を3副露しているところにもう一組副露させると、4つ目を打ち出したプレーヤーが包(パオ=責任払い)となった。

 唖然とした他の3人、かといって「俺に放銃せよ」とは言えないから黙っていると、観戦者が、「まさか中止にするわけに行くまい。見ると同じ3副露でも南家の分は全部東家の捨て牌だ。だったら東家はこれまで索子を捨てた責任をとって索子を切れ

 なるほろというので東家も納得。索子を打ってゲームを続けることになった。そこで東家が索子を打ったところ、無事通過した。そのあとすぐ西家が万子をツモアガリした。おかげで東家は包による1人払いを免れた、というのんびりした時代ならではのお話し。

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