現在でも嶺上開花のときツモの2符をつけないルールがある。大明槓による嶺上開花をロンアガリで1人払い(放銃扱い)とするルールがあるが、別にそれとは関係ない。もしツモ2符を加算しないのがこのル−ルに由来するのであれば、暗槓・小明槓=嶺上開花はツモアガリ(3人払い)であるから、ツモ2符を加算する筈である。
しかし嶺上開花でツモの2符を加算しないルールでは、いかなる嶺上開花にも2符を加算しない。この点からも「ツモ符を加算しない」ルールと、大明槓・嶺上開花=1人払いルールは関係がないことが理解できる。また嶺上開花にツモ符を加算しないルールでは、海底自摸和でもツモ2符は加算しない(近年は嶺上開花には2符加算しないのに、海底自摸和には加算するというルールも結構多い)。
麻雀が誕生して以来、海底自摸和が1人払い(放銃扱い)となった事はない(包が絡んだアガリは別問題)。にもかかわらずツモ2符が加算されないと言うことは、このルールと大明槓・嶺上開花=1人払いルールは関係がない事の二つ目の証拠である。
第三に中国麻雀では包(パオ=責任払い)以外のすべてのアガリ(ロンアガリ、ツモアガリ)は常に3人払いであった(ロンアガリ1人払いルールは昭和初期に日本で成立したルール)。その中国麻雀では嶺上開花、海底自摸和にツモ2符は加算されなかった。すなわち嶺上開花、海底自摸和にツモ2符を加算しないルールは、中国麻雀に由来する。
現在の日本麻雀ではアガリ役はすべて翻役である。しかし清麻雀発生当初(1850年頃?)には、多くの符役(符だけを取得するアガリ)が存在した。当時のルールを考証した榛原茂樹氏の「想定寧波規則」によれば、当時のアガリ役は下記のようになっていた。
☆符底のみ ・平和・搶槓
☆加2符役 ・自摸和・嵌張和(純正)・辺張和(純正)・単騎和(純正)・双 石並和(純正)
*純正とは8889のような変則二門張でないもの。双 石並も三門、四門は不可。
☆加4符役 ・嶺上開花・海底自摸・金鶏奪食(「加4符」では比重が軽すぎるので、これは絶張和であったかも知れない)
☆一翻役 ・混一色
☆三翻役 ・清一色
☆半満貫(百点)・地和(本義)
☆満貫(二百点)・天和・大三元・四喜和・国士無双・十三不搭
以上で理解できるように、ツモアガリ自体が、通常のツモアガリに対する符役であり、特殊アガリである海底自摸和や嶺上開花等と重複することはなかった。ところが1880年頃から1900年にかけて全体的な役の昇格機運に伴い、海底自摸和・嶺上開花が加4符役から加 10符役に(麻雀牌譜)、さらには一翻役に昇格した。
加4符役が一翻役に昇格したのであるから、一翻プラス嶺上4符、海底4符という事にはならない。またもともと海底自摸和・嶺上開花の時、ツモ2符は加算されなかったので、一翻役となってからもツモ2符も加算されなかった。しかし日本に伝来後、「ツモアガリなら、ツモの2符を加算するべきである」という事になり、認めるルールが採用され始めた。
昭和5年、当時の日本麻雀を代表する先人(菊池寛・久米正雄・佐々木茂索・麻生雀仙・国米藤吉・前島吾郎・榛原茂樹・林茂光・高橋緑鳳・川崎備寛・菅野容夫etc)と日本在住の中国人実業家(いわゆる華僑)との間に「日華麻雀争覇戦」が開催された。
これは歴史的イベントで、東京の読売新聞社は単に大会を後援するだけでなく、紙上に麻雀欄を設けて選手の打ち筋を掲載する等、大々的にバックアップした。また昭和29年になると報知新聞は日本で最初に立直麻雀ルールを成文化し、そのル−ルで麻雀大会を主催している。
この日華麻雀争覇戦のルールは、当時の日本ルールに準拠していたが、嶺上開花にはわざわざ「自摸有点」というコメントがついている。これにより、恐らくこの前後から嶺上開花にツモ2符を加算するようになったのではないか、と推測される。
なお、この当時のルールでは、四暗刻のとき、暗槓子があると四暗刻とは認められなかった。そこで仕方なしに4枚目を切ったら放銃になった、というエピソードが伝わっている。おまけに平和、小四喜、混一色も一翻だったので、オタ風を抱えた門混は平和とあまり変わらないアガリだったという(実際には刻子や槓子、あるいはサイド計算のおかげで、そこまではいかなかったと思われる)。
いずれにせよ戦前の日雀連は雀界の中心的存在でもあり、そのルールも指標的役割を果たしていた。そこで日雀連ルールである嶺上開花、海底自摸和のツモ2符加算ルールも序々に普及し、現在では殆どのルールで認められるようになっら。しかし現在でも一部で「ツモ2符を加算しない」というルールが採用されているのは、このような経過があるためである。
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