月刊「プロマージャン」に、先月から「公開書簡」という連載がされている。AさんとBさん、次はBさんとCさんという具合に、往復書簡の形式で麻雀のあれこれを語り合って行くという形式のもの。
内容についてアレコレいうほどのことは無いけれど、今月号は、ちとの興味を惹く話題があった。
土田氏の「麻雀からサイコロを追放すると言う提案がされた場合、安藤さんは賛成か反対か。この場合、場所決めは風牌つかみ取りにしてを引いた者がそのまま起家=東家としてゲームを始める」との問いかけに、安藤氏が「麻雀からサイコロを追放するのは絶対反対」と答えている。
言うまでもなく純麻雀では、とうの昔から振りサイは無い。起家=東家のつかみ取りでも、すでにその通りだ。そこでσ(^-^)としては、土田氏の提案には賛成する前に賛成だ。(笑)
ただ純麻雀では、「常に東家の壁牌右端から配牌」する。しかし土田氏は、「常に東家前の9の場所を開門するのが一番便宜的か」と述べている。
「5」ではなく「9」が便宜的としたのは、もちろん今の振りサイが、5と9で自分の山から配牌するということ。それと9なら王牌14枚が、すべて東家前に残るからということなんだろうな。
まぁそれはいいけど、その後に続く「どんなに好調でも、出目によっては親っかぶりしたりする出目があり、サイコロを振るときの集中力如何で大きく結果が変わってしまう」という記述には、ちと首をかしげた。
もし本当にそう思っているならば(もちろん、そう思っていても構わないんだけれども)、振りサイが無くなると却って困るんじゃないかしらん....
で、この振りサイ廃止案に対して安藤氏は「私は流れ論者。振りサイで、流れが左右されると信じて打ってきた」という主旨で反対している。
純麻雀で振りサイを廃止しているのは、「親決め/場所決めの手間が省ける」という単純な理由。別に流れを信じたり信じなかったりして、そうしたワケではない。しかし誰かが流れを信じているとしても、それはその人のポリシーだから、別に異論を唱える気持ちもない。
しかしその後の、「(振りサイを無くすと)バクチ的要素ではなく、運の要素が省かれるのでは」と言う話には、やはり首をかしげた。もちろん運の要素が省かれるのは、σ(-_-)にとっては大いに好ましい。しかし振りサイを無くしたくらいで運の要素が減るとは、とても思えない。
バクチ的要素とか運の要素はルールによって増減しても、振りサイの有無で増減することはない。振りサイせずに常に特定箇所から配牌するようにしても、ツく奴はツくし、ツかない奴はツかない。とσ(-_-)は信じてる...(~-~;
もちろんサイコロを振る行為は、或る意味、ギャンブルを象徴している。その象徴としての振りサイを麻雀から廃止するのに反対というなら、σ(-_-)にはその方が話がよく分かる。
PS:別に「その2」を書く予定など無いけれど、ひょっとするとひょっとするかも知れないので、「その1」とした。(^-^;
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