むかし、たって相当むかしの話。あまりにむかしの話なので、いつ頃かも覚えてもいない。しかし水道橋にあったアイウエオ(雀荘)の2階での話だから、アバウトで云って30数年くらいむかし。当時、フロアマネージャーだった小島(武夫)さんと雑談している時、なにかの拍子にテンパイ一点読みの話になった。
そのとき小島さんは「テンパイ一点読みは可能だ」と言った。もちろんσ(-_-)はペエぺエもいい頃。(ふ〜ん、小島さんぐらいになると、そうなのかぁ)と思いながらも半信半疑。とりあえず「ヘェ〜」と返事しただけで話は終わった。
それから何年かしてから近代麻雀誌上で(活字のね)、小島さんと畑さん(ムツゴロウさん)の間で、「テンパイ一点読みは可能か」なんてテーマで対談が始まった。そのときは、「おお、あのときの話か」と思って読んだ(今は中身をほとんど覚えていない....)。
まぁ、それでもおおよそのところ、小島さんが「可能だ」というのに対して、畑さんが「不可能だ」と互いに言い合う内容だった。そいでもって言い合うだけでは決着がつかないので、ある局のリーチ手をいくつか示し、そのテンパイを小島さんが一点で読むというような話になった。といったって現実には一点で当たるわけはない。そこでまたそれについて「ああでもないこうでもない」という小田原評定みたいな話になっていった記憶(う〜ん、よく覚えておらん....)。
まぁそれはいいとして、当時のσ(-_-)としては、「一点読み可能というのは、小島さんが勢いで云っただけで、いくらなんでもそれは無理なんじゃあ」というのが漠然として感想だった。で、基本的には今でもそうなんだけど....
そのとき小島さんが「**と一点で読んだら、それ以外の牌は全部行く」とか云って、畑さんは「それは読み切ったんじゃなくて、自分でこうと決めただけの話だ」とかいう反論があった(ような記憶)。
で、今頃になって思うこと。
テンパイする前には一向聴段階がある。ABどちらかを引いてテンパイだが、どちらを引いてテンパったかなんてことは神様にしか分からない。つまり畑さんのいう通り一点読みは超能力でもないと不可能ということになる。(K場さんがいたら、やはりそう云うだろうね(笑)
) ま、それは理の当然で反論の余地はない。
しかしそれはそれとして、待ちを読むというのは理屈だけでなく、たぶんに経験則による要素もある。たとえば普通、待ちを読むというと「万子なら**、索子なら**、筒子なら**」という感じで考える。また、「待ちは索子の下目か筒子の上目だろう」と読む場合もある。さらには、「なにか字牌がからんだシャンポンか、不規則な待ち臭い」と読むこともある。これは確かに畑さん流でいう一点読みではない。しかしだからといって“一点読みは不可能”と決めつけてしまうのも短絡的なような。
基本的な情報として、捨て牌のパターンがある。いわゆる裏筋とか万子が高い、索子が安いというたぐいだ。そりゃあ、“この捨て牌で、その待ちか?”というケースはいくらでもある。プレーヤー自身も、待ちを分かりにくくする工夫もする。しかしチャンタを指向しているプレーヤーが一九牌ばかりを捨てる、万子の清一をガメっているプレーヤーが万子ばかりを捨て続けるなんてことは絶対ない。そういう意味で、全体的な話であるにしても、捨て牌には待ちを推測できるようなパターンが存在する。
もちろんいかにパターンがあると云っても、情報量の少ない中盤前のリーチなどでは的など絞れない。しかし場が煮詰まり、副露も幾つかなされている状態であれば情報量も豊富である。
さらには場の雰囲気というものもある。その雰囲気は場に捨てられた牌だけでなく、そこに至るまでの道程、あるいはプレーヤー自身の置かれている立場なども含んでいる。そこでリーチがあったときなど、そういう無形の情報が捨て牌パターンや過去の経験とミックスして直感として現れる。
いうまでもなく麻雀は直感・閃き、瞬間の判断の繰り返しの世界。そういう中でのテンパイ読みは、当たるも八卦、当たらぬも八卦ではありながら、往々にして正鵠をつくことも多い。この部分を度外視して、リーチがかかったときの場況などをペ−パーで示し、「ほれ、一点で当てて見ろ」というのも、片手落ちな話ではないかと思う次第だ。
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