絶対雀感について、もう少し考えてみた。
絶対音感は聴覚の働きによる。人には聴覚のほか、視覚・嗅覚・味覚・触覚という五つの知覚がある。一般に五感というやつだ。五覚と云わずに五感と云い、また絶対聴覚と云わずに絶対音感と表現すると云うことは、知覚=感覚というイメージで捉えられていることになる。しかし果たして絶対知覚イコール絶対感覚なんだろうかと思った。
感覚の感は、感情の感でもある。そこで「あの人は感覚でモノを云う」とか、「いい感触だ」なんてアバウトな表現もある。つまり感覚は、知覚というシャープな表現にくらべてふんわかしたイメージがある。いうなら知覚には知覚しかないが、感覚は知覚を包含した表現。知覚を卵の黄身とするなら感覚は白身、それがあいまって卵を形作っている感じ。
そこで改めて絶対音感を考えてみる。たしかに一般に絶対音感は絶対聴覚とイコールとして捉えられている。しかし、「一度聞いた音をいい当てる」、あるいは「一度聞いた音を再現できる」というのは、絶対聴覚であって絶対音感ではないような気がする。
絶対聴覚が持って生まれた先天的なモノであるとしても、それはあくまで受動的な知覚にすぎない。そこでいま聞いた音をいい当てたり再現できたとしても、音楽を能動的に創造する能力とは別問題ということになる。
じっさい歌というのは単に音符通り声を出すということではない。歌には感情の表現も必要だし、目に見えない間合いもある。それは音符に表すことができない部分。作曲にしても、もちろんこれは創作の世界。聴いた音楽を再現することが作曲ではない。
もちろん音楽の鉄人をめざす人に絶対聴覚が備わっていれば、大いに有利。しかしやはり名音楽家/作曲家になるには、そこに豊かな音楽センス/創造力が必要となる。そこで本来は、それも備わった人を絶対音感の持ち主と云うべきということになる。しかし音楽の場合、絶対聴覚=絶対音感と理解してしまうので、絶対音感の持ち主=音楽界の鉄人とは限らない、ということが生じてしまうのではなかろうか。
ということで、よ〜うやく本題(_ _;
絶対聴覚は「一度聞いた音をいい当てる」、あるいは「一度聞いた音を再現できる」という能力。では麻雀に関連した知覚はなんだろう。まさか絶対触覚=一度さわった牌は、つぎに摩牌すれば必ず当てる、ではないだろう。それくらいならσ(-_-)もできる。(笑) もちろん嗅覚や味覚が関係あるとは思えない。となれば残るは絶対視覚ということになる。
聴覚からの連想でいうと、絶対視覚とは 「一度見た手は忘れない」、あるいは「場況を再現できる」ということになる。いうならカメラとかビデオのような能力か。うん、これはたしかにすごい能力だ。
しかし完璧に手順や場況を再現できても、それだけでは何の役にも立たない。やはり過去の手順や場況などを現在に活かす創造性/センスが必要だ。絶対視覚のうえに豊かな創造性/センス、それが絶対雀感ということになるのかもしれない。
もしこういう事であるならば、絶対雀感のチェックもなんとかなりそうな気がしてきた。絶対音感はいま聞いた音をいい当てさせたり、聞いた音を再現させてチェックする。絶対雀感が絶対視覚のうえに成り立っているのであれば、単純に手順や場況を再現させてみればいいのかも。
とはいえ麻雀の場合、ツモ切り/チーポンを含めて、ランダムに切られた70枚あまりの捨て牌まで完璧に再現となると、たとえ1局だけであってもギネスに載るような特異能力が必要となる。さすがにそこまで望むのは、ちと行き過ぎか....
しかし絶対視覚/絶対雀感ともなれば、半荘の1ゲームや2ゲーム、東の1局から南の4局まで、各局のアガリから点棒の動きぐらいは再現できても不思議ではない。
げぇっ、本題より前振りのほうが長い....(~_~;
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