Mahjan talk 雀話

    (19)20年間、何してた?


 雀話no.11「蛙の釜茹で」でも紹介した来賀友志氏のコラム「こんなことってあり?」(月刊プロ麻雀誌)が連載中止になった。楽しみにしていたので、とても残念だ。

 中止の理由は、プロ麻雀連盟最高顧問・小島武夫氏が、「プロ批判をやめてほしい」とプロ麻雀誌に申し入れた。そこで編集長が来賀氏に「原稿内容の変更はできないか」と打診したところ、来賀氏は「書きたいことを書く場所がなくなる以上、私は降ります」と言うことで、そうなったとのこと(らしい)。

 こういう結果について、雑誌社の姿勢についても思うことはいろいろある。しかしいまここで企業姿勢やジャーナリズムの問題まで話を広げるエネルギーもない。ま、一言で云えば、加藤政局(腰砕け)ということか....

 小島顧問が連載中止を申し入れた理由は、「(麻雀プロは)むかしに比べてずいぶん増えた。しかし組織体としては、まだ非常に脆弱。この段階でいろいろ批判されると困ってしまう」ということだそうな。たしかに最近はフリープロを名乗るプレーヤーまで見かける。なんだか、云いさえすれば猫も杓子もプロ状態。 「(麻雀プロが)ずいぶん増えた」というのは、確かにその通りだ。

 また「組織体としては非常に脆弱で、この段階でいろいろ批判されると困ってしまう」というのもその通りだろう。しかしだからと云って「プロ批判をやめて欲しい」というのは、いささか本末転倒のような気がする。第一、批判に対して「批判をやめて欲しい」というだけでは、たとえ批判が中止されたとしても、単に臭い物に蓋をするだけで何の問題解決にもならない

 もちろんマスコミ掲載記事に対して、異議を申し立てること自体に問題はない。世の中には誹謗中傷に始まって、善意/悪意を問わず誤解/錯覚に基づいた記事だってあるからだ。しかし今回の来賀氏のコラムは、一部、事実誤認があった部分があったようだが、誹謗中傷の類のモノではなかった。

 たしかに舌鋒鋭いところはあった。そこで書かれた当事者にしてみれば、「なにもこんなことまで書かなくても・・・」と感じたところもあるかもしれない。しかし主旨そのものは、混沌とした麻雀プロ界に警鐘をならす、あるいは問題点を鋭く指摘するというモノであったと理解している。

 それに対して「この段階でいろいろ批判されると困ってしまう」などという自分勝手な理由による連載中止の申し入れには、何をかいわんやという印象を持った。

 異議があれば、プロ麻雀誌に「反論の場を与えよ」と申し入れ、徹底的に反論した方が、プロの存在をアッピールする手段としても効果的であるのは云うまでもない。なぜそれをしなかったか?。ひょっとしたらコラムの内容があまりにも正鵠を突いていて、反論のしようがなかったのか.....

 小島顧問の手記の見出しに、「プロという名に価しない者もいるかもしれないが、もう少しわれわれに時間を与えて欲しい」とある。しかしプロ麻雀連盟という組織は20年ほど前に結成された。決して短い時間とも思えない。一言で云えば、「20年間、何してた?

 手記には、さらに「麻雀プロと呼ばれる我々に一番欠けているのは『プロらしさ』 だと思う。(中略)もっとプロらしさを見せることで、一般にアッピールしてゆきたい」とある。しかしこの「プロらしさ」が、どういう事を意味しているのかよく分からない。

 いまから20年ほど前、プロ連盟が設立される頃、小島さんと話したことがある。そのとき小島さんは、「どんなルールで、どこでやっても勝ち切って行くのがプロ」という主旨のことを話していた。たしかにそれは一理ある。しかしプロなら強くて当たり前。改めて云うほどのことではない。しかし麻雀が、どんなルールでどこでやっても勝ち切って行くことが出来るゲームであるならば、いま頃こんな問題は生じていない。

 麻雀が囲碁・将棋とは全然性格の異なるゲームであることは分かり切った話。その麻雀でプロという存在が一般に受認されるには、どのような基準でプロ認定して行くのか、またこの混沌とした麻雀界でプロとして何をどのように指向して行かなければならないか、それが知りたかった。しかし話はそれ以上深くはならず、そこで終わってしまった。

 麻雀が、たとえ世界最強のプロといえど、どんなルールでどこでやっても勝ち切って行くなんてことは不可能なゲームである。である以上、より厳しさを求めていないと「なんじゃそら」ということになる。

 それが厳しさどころかプロという名に価しない者までプロと認定してきたような姿勢が今日の結果を招いている。なのに単に「プロらしさを見せて一般にアッピールする」などという抽象的な文言で今後も進んで行こうというのでは、何も変わらないと思うのはσ(-_-)だけかいな。

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