KM Q&A 難問奇問 

         (06)包
 (月刊近代麻雀・昭和61年1月号)
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最近 競技麻雀で包が無いルールを見かけます。しかしいくら競技麻雀でも、暴牌を戒める意味で包規則は必要ではないでしょうか。 (東京・巻○ 努)


たしかに一般麻雀では、大三元などの最後の牌をポンさせて役満を確定させると(パオ)=責任払いになりますね。

 は正確に云うと一家包(イーチャバオ)一家包は、わかりやすく云うと“一人で丸抱え”。つまり“1人で責任払い”と云うわけです。

 中国麻雀はロンアガリ、ツモアガリに関係なく3人払いです。しかし役満などの大物手を確定させた挙句、その本人が放銃したものまで3人払いというのでは他家はたまりません。そこでそのような超危険稗の打ち出しを戒めるために責任払いというルールができました、というのはウソです。真の理由は、“中国において麻雀は純粋のバクチ”という点にあるのです。
                                        
 バクチである以上、イカサマはつきものです。しかし牌のスリ換えなど、小手先のイカサマは大した効果はありません。最も効果的なのは2人がグルとなり、に毎回のように大きな手を完成させ、の出費を大きくするという方法です。

 そこでそのようなイカサマを防ぐために、役満など大物手を完成させた助力者を責任払いとするルールが出来たのです。こうすれば いくらに役満を完成 あるいは放銃しても、に被害は及びません。というような理由から、中国麻雀でというルールが成立したのです。

 このですが、現在 日本麻雀では役満だけが対象になっています。しかし昔は三翻包、満貫包などさまざまながありました。しかしその歴史等は次の機会に譲り、今日は質問の「競技麻雀でも暴牌を戒める意味で包は必要ではないか」という点に的を絞って進めてゆきます。

 暴牌を戒めるとなれば、まず“暴牌とは何か”ということになります。これは一般的には誰かが大きな得点を確定させるような牌とされます。個人的には、そんな高得点を期待できる牌をボンボン打ち出していただけるのなら、戒めるどころか毎回でもお願いしたい。また自分が打ち出した場合でも、自分が勝つために必要として捨てることが、どうして戒められなければならないのかと思いますが、まぁそれはともかく....

 たぶん一般論として「暴牌が打たれるとゲームがブチ壊しになる」とか、「1回の大量点で、勝負が決まってしまう」というような事が理由と思われます。もちろん「自分は固く打っているのに、ヘボのあおりを食って負け組になるのはたまらん」という事もあるかもしれません。

 たしかに大きな一発点があれば、ゲームの帰趨が決まることは多いと思われます。しかし大勝があれば大敗もある、辛勝もあれば惜敗もあるのが勝負です。あるゲームが誰かの打牌に起因する大量点で勝負が決まったからといって、問題になることとは思えません。

 もしそれほど一発で勝負が決まることがイヤであれば、一発で大量点の出るようなアガリ役=役満を採用しなければいいわけです。そのようなアガリ役を採用していて、「役満を確定させる牌を打ち出すのを戒める」などというのは本末転倒と思われます。

 勝負という観点からは以上のような考え方になりますが、観点を少し変えてルール的な面からはどうでしょうか。

 麻雀の勝負の判定基準は、いうまでもなくゲーム終了後の得失点です。となれば競技麻雀では、点数の得失点は明解でシンプルである必要があります。それにはまず第1に得失点の授受は、有効なアガリがあった場合に限るべきと思います。つまりリ−チ料とかテンパイ料などというアガリ以外の理由による点数を授受しないことです。

 第2に1人払いとなるのは、自分の打牌に対してロンアガリされたときだけとし、ッモアガリはすべて3人払いとすることです。麻雀にはいろいろなアガリ役があります。どのような経過でどのような役を完成させたかに関係なく、単純に「ロンアガリは1人払い、ッモアガリは3人払い」とするのです。

 それがたまたま役満だからといって、最後の副露牌を打ったプレーヤーの1人払いとするのは、競技的な考えではないと思います。得失点の収支はアガリに至る経過ではなく結果で決まるのです。そのような観点から、先進的な競技麻雀では包則が設けられていないのです。

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