History 歴史

    (4)馬吊カード


 むかしポルトガル船が種子島に漂着して鉄砲が伝来した。このときカルタ(CARD)も伝来したという(この辺り、史実的には諸説ある)。このカルタは日本で発展し、うんすんカルタとして流行した。うんすんカルタの「うんすん」は、ポルトガル語だかスペイン語の「ウム(1)、スム(2)」の意味という(人を問いつめるときの「ウンとかスンとか云ってみろ」というのは、ここから来た)

 で このポルトガル船がもたらしたCARDは、現在のトランプの前身と目されているわけだが、そのルーツはまた中国カード、葉子戯(ようしぎ)/馬吊(マーチャオ)にあるという。葉子戯・馬吊をヨーロッパにもたらしたのはマルコポーロという説もある。マルコポーロ単伝というのは無理があると思うが、伝搬の時代は ほぼその頃。

 ポルトガル船がもたらしたCARDは日本で大いに流行したが、その前身とも言える紙牌ゲーム・馬吊は日本にぜんぜん伝播しなかった。この馬吊がトランプのルーツであるかどうかは措くとして、麻雀のルーツの1種であることは間違いない。

 この馬吊、中国でいまも盛んに遊ばれている。日本と中国は昔から密接な文化交流が行われているので、日本に馬吊が伝播しなかったのはゲーム史の七不思議の一つ。では日本人は近年までこの馬吊を見たこともないのかといえば、そうではない。近年、麻雀博物館を中心とした研究により、いろいろ新事実が明らかになってきた。

 桂川中良(かつらがわ ちゅうりょう)という江戸在住の医者が、寛政12年(AD1800)「桂林漫録(けいりんまんろく)」という随筆録を著している。その中に「寛政3年(AD1791)、中国・南京の船が遭難して房総半島の安房に漂着した。船を修理ができるまで、しばらくそこに滞在した。彼らが立ち去った後、暮らしていた仮小屋に1枚の紙牌が残されていた。それには『一万貫』という文字とともに中国武人の姿が描かれており、脇に浪子(ろうし)と書いてあった。これは浪子燕青(ろうしえんせい=水滸伝の英雄の1人)のことであろう」という記述がある。

 現在の研究では、この馬吊は福健省あたりのカードであろうと推測されている。いずれにせよ、これがいままで馬吊が日本で実見された最初の公式の記録であった。ところがこのたび、これを覆す大発見があった。

 宮城県の仙台市に仙台博物館がある。その仙台博物館に、江戸時代中期(AD1738−AD1793)の著名な経世家(政治家)林士平(はやししへい)ゆかりのオランダカルタ2枚が展示されている。それを仙台在住のさんが東京のさんに話をし、さんがさんに話をした。さんはそれをまた江橋崇(えはし たかし)先生に話をした。江橋先生といえば、本職は法政大学の法学部教授であるが、趣味の分野でもトランプ・花札・中国カードなど日本有数のカード学の権威。その先生が林士平ゆかりのオランダ・カルタがあると聞いてほっておくわけがない。すぐに仙台まで素っ飛んでいった。(^-^)

 前述したように、とりあえず西洋カードの伝来は天正年間(AD1573〜AD1592)のポルトガル船ということになっている。その後、日本では西洋カルタがうんすんカルタとして大流行し、多くの国産カードが製造された。そして そのとき伝来した西洋カルタの現物は散逸して現物が残っていない。また その後、西洋カルタが伝来したという記録もない。そこでもし仙台博物館のカルタが、本当に江戸期のオランダカルタであれば、日本カルタ史を揺るがす大発見となるわけである。

 で仙台で確認したところ間違いなく本物。カルタ史を揺るがす大発見となった。これはホームラン級の大発見であったが、実はこのとき、ホームランに逆転・サヨナラ満塁の文字がプラスされるような、もう一つの大発見があった。

 その仙台博物館の図録には、やはり林子平ゆかりのカードとして、オランダカルタの他に古い中国カードの写真が掲載されていた。どうみてもそれは馬吊にみえる。しかし現物は展示してなかったので、江橋先生は博物館に頼んで見せて貰った。

 するとなんと、間違いなく完璧な馬吊!。麻雀でいうと四万・3索・一文(筒)と、花牌に当たる札が各1枚あった(この他にも、象棋紙牌が2枚あった)。「おおっ!」というので、江橋先生はその場でひっくり返った。さらによく調べてみると この紙牌は同一種類のモノではなくて、福建省のもの1枚、浙江省以北のもの3枚で、各地方札が混在していることがわかった。

 ではどうして林士平ゆかりのオランダカルタが仙台にあったか。実は林士平は仙台に大いに縁がある人物なのだ。

 15歳のときに兄が仙台藩に仕えたので、仙台に移住した。自分は仙台藩には仕えなかったが、経世家として仙台藩におおいに助言をした。その活動の中で長崎に赴(おもむ)き、オランダ商館長・フェイトに会った。そのとき この西洋カルタを入手した。これを仙台での友人である塩釜神社の祠官・藤塚知明にプレゼントした。それを子孫が大事に保管していたが、のちに仙台市博物館に寄贈したという流れ。

 林子平が長崎に赴き、オランダ商館長・フェイトに会ったのは安永6年(AD1777)、中国・南京の船が遭難して房総半島・安房に漂着し、1枚の馬吊(一万)を残して去ったのが寛政3年(AD1791)。となれば明らかに林子平平カードの方が歴史が古い。つまり馬吊伝来初年は史実的に20年ほど遡ったことになる。

 実際、こういう江戸期のカードが発見されても、年代まで特定されるのは、ちと珍しい。それがたまたま林子平という著名人物に関連していたため、年代まで特定できた希なケースとなった。

 これによって鎖国期における中国カードの伝来が実証されただけでなく、当時の長崎・唐人屋敷などにおける中国人の生活の一端がかいま見えるという、まさに超弩級の大発見となった。江橋先生が博物館に行ったとき馬吊カードは展示してなかったらしいが、博物館も今は展示していると思うぞ。(笑)

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