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    (37)大正よもやま話


かって平凡社が大判で「太陽」と言う名の雑誌を発行していた。その昭和49年5月号は、大正時代の特集号。その中に、「大正よもやま話」と題した座談会が収録されている。出席者は「渋沢秀夫、藤浦 光、益田義信」の3人。その中で藤浦光氏が、大正時代の麻雀の思いでを話している。

 その藤浦氏の話で、後に初代日雀連総裁となった菊池寛氏と麻雀とのなれそめが語られているのが貴重な証言。しかしそれより重要なのが、「金沢という人物が、初めて日本で麻雀牌を作らせた」というくだり。

 それが事実なら、研究者にとっては非常に興味がある。ところが「金沢」氏については、名字しか分からない。現時点ではどこの誰やら皆目不明.....それでも当時、どこかの団体にでも在籍していれば、当時の資料にチラッとくらい足跡が残っている筈。しかしそれも現時点では見あたらない。どうやらプレーヤーとしては、戦前の麻雀界には在籍しなかったようである。

 また現在、麻雀牌のはじめはじめに関しては、2,3のレポートが存在するが、どれにも金沢氏の「」の字も出てこない。とはいえ藤浦氏が架空の話をするわけないので、研究者としては実に悩ましい存在....(-_-;

 以下、「太陽」の該当部分。

藤浦「大正になって、ポコンと現れた遊びに麻雀がある」
益田「いつなの?」
藤浦「震災の後なんだ。明治の終わり頃でもヨーロッパに旅行した人は、船で中国人のボーイから教わっているんだよ。しかしそれは一等船客に限りだ。だから華族様とか財閥は知ってはいたわけね。だけど日本中には普及していないんだ」

藤浦「ところが金沢と言う男がいて、上海でいろいろ事業をやっていた。そこで麻雀を覚え、好きになっっちゃったわけだ。“これは面白い。日本でも流行るぞ”と言うので、それまでの仕事を辞めて麻雀の作り方を勉強した」

藤浦「それで東京が大震災でやられたとき、いち早く竹と象牙を買ってきて上海から戻り、品川のお女郎屋の真ん中に小さな家を借りて麻雀工場を作った。印形屋の若い職人を集めてきて、“印形なんて作ったって食えないぞ。いまからこれが流行る”と言って、作り方を教えたわけだ。

藤浦「それで一番はじめに出来たのを菊池寛のとこに持っていった。文芸春秋だな。そしてそのとき来てた里見弓享、久米正雄、菊池寛が金沢と囲んで麻雀を教わった。それを僕とか永井龍男とか池谷信三郎なんかが後から見ていたわけよ」

藤浦「その時分、「文芸春秋」はゴシップ雑誌で、今みたいにリッパでなかったんだけれども、その文芸春秋で、盛んに“麻雀が面白い”と書いたもんだから、たちまち名前が広まっっちゃって、みんなが興味を持ちだしてきたというわけだ」

Cr 投稿日:2012/10/19(Fri)

このサイトを読み返していて気づいたことがあるのですが。

歴史 no.37 大正よもやま話 より
 「その藤浦氏の話で、後に初代日雀連総裁となった菊池寛氏と麻雀とのなれそめが語られているのが貴重な証言。しかしそれより重要なのが、「金沢という人物が、初めて日本で麻雀牌を作らせた」というくだり。」

 それが事実なら、研究者にとっては極めて興味のある話。ところが「金沢」氏は、名字しか分からない。現時点ではどこの誰やら皆目不明.....それでも当時、どこかの団体にでも在籍しているれば、当時の資料にチラッとくらい足跡が残っている筈。しかしそれも現時点では見あたらない。どうやらプレーヤーとしては、戦前の麻雀界には在籍しなかったようである。

麻雀殿堂 9a 中村徳三郎 より
中村徳三郎は本名を金澤熊郎(かなざわくまお)ということであった。」

……これはつまり、そういうことですか?


あさみ 投稿日:2012/10/19(Fri)

ども、Crさん。

 これはつまり、そういうことですね(^-^;
 完全にσ(-_-)のケアレスミス(>_<)、「大正よもやま話no.37」をコラムしたとき(H14.12)、「麻雀殿堂 9a 中村徳三郎」(H07.01)の内容をまったく失念していました。(/_;)

 なにせ間が7年も空いていたので...m(_ _)m(と言い訳しつつ)、さっそく「よもやま話」のコラムにCrさんのコメントを付け加えておきます。貴重な指摘、どうもありがとう(^^)/

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