(36)麻雀起源史譚
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ちょうどBBSで、太平天国の乱と麻雀の関わりについてやりとりがあったので、前項「麻雀の起こり」に続いて、麻雀の起源についての一説を紹介することにした。
これは堀江と言う人物が、大阪で講演したものを小島素心という人がまとめ、昭和5年、林茂光麻雀研究所機関誌「麻雀(s6/1)」に連載されたもの。しかし堀江氏がどのような人物であったか、詳細は不明である。
ただこれ以外の諸文献に堀江氏の名前をみないことと、文章の内容から、麻雀愛好家ではあるが、いわゆる麻雀学派の人物ではないようである。
内容は太平天国の乱と麻雀の誕生に関わる起源論で、官軍の王嘉莫という実在の人物も登場して非常に興味深い。たとえばいままで麻雀と太平天国軍の関わりについては、“風牌は太平天国軍の諸王牌(東王・南王など)から派生したのではないか”という内部事情との関わりから説かれていた。しかしこの説では、“風牌は包囲軍の四将に由来する”と説く。
とはいえ当時、機関誌「麻雀」の編集担当者であった天野大三氏が述べているとおり、「其の考証が却って牽強付会ではないかとの疑ひも抱きうる」。たとえば、この論では王嘉莫氏を中心とした官軍の将軍が麻雀を考案したとこになっており、陳魚門のチの字もない。(-_-)
また“手牌13枚は「太平天国軍の十三王に由来する”とか、“兵牌(ピンパイ)や王牌(ワンパイ)の名称は包囲軍の将兵を意味する”などの謂は、にわかには首肯しにくい。
しかし「最初は馬吊に似た48枚を改良増牌して、花牌も使った。次に将棋に似た王牌、兵牌を意味して94枚となった」。あるいは「最初の遊び方は、双六に似ていた。それが追々和了第一主義となった」など、史実を裏付けるような叙述もある。
“火のないところに煙は立たない”と言う。この起源論がそのまま史実かどうかは検証の余地があるものの、当時の実在の人物(王嘉莫・王陪均)による証言と相俟って、麻雀と太平天国軍との関わりを示唆している事は留意すべき点と考えられる。
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麻雀の起源につきましては諸説紛々として何れを真として採つてよいのか、根拠のあるのは何の説かと言ふと実に誰しも迷はざるを得ないでせう。私が四川省に居りました間に見聞調査したしたものがどうやら信するに足る様だと思はれますので、私はこれを機を見て発表したいと思つて居りました。
そのころ、「ゲーム」の昭和5年11月号に載つて居りました小島素心氏の記事を拝見しました。そのお説には私の麻雀史の考察と相関聯して共鳴する点が多く、私は益々意を強ういたしまして、これを一般的に発表しても差支ないと存じましてお話することにいたします。
これまでに麻雀の起源に就ひて色々の説があります。中に、「北京の宮中の男女が無聊に苦しんで何か目先の変わった遊びをと考え出した。之が麻雀の原型だ」とも言ひます。
また「揚子江のを上下する商人・船頭が船中の徒然に紙製の馬吊と言ふ48枚を弄んでいたのが、河風のため、時に吹き飛ばされるので、漸次改良されて現在の如き骨と竹とで製られたる骨牌を使用することになつたのだ」と云ふ説もあります。
それから近頃では支那の文献からの研究に基き、諸種の説も出で、その各本場争ひまでせられて居ります。然し故に私のお話し申し上げるのは、実際此の麻雀の考案に参與したと云ふ現任四川省成都少城桂花街の王嘉莫氏の子息・王陪均氏より話を聞きまして、その発明の動機及び麻雀牌が意味して居る処を知ったのです。
この王陪均氏は以前、胡漢民氏が四川省総督時代に、管長、すなわち大隊長を務めていた人で湖南省の生まれです。その父、王嘉莫氏はむかし長髪族(ちょうはつぞく)の乱のときに、学者ではありましたが曾国藩(そうこくはん)の組織した湘軍に入って羅澤南(らたくなん)と言ふ指揮官の下に大に活動し、約十年問、長髪族の討伐に奮戦した勇士です。
※長髪族
清朝は満州族の王朝なので、髪は弁髪。しかし太平天国軍は漢民族風に髪を伸ばしていた。そこで清朝側は太平天国軍を長髪族と呼称していた。
この長髪族の乱と云ふのは、その首領たる洪秀全が咸豊元年(西歴1851年)廣西省永安川に拠って太平天国と称し、自ら太平帝王と宜し、之れから同後三年、南京に於て陣没する迄、実に15年の長きに渡って続きました。
その本部を南京に置きましたのが咸豊三年(AD1853)二月十日であります。それから南京城内で、その部下の内訌()ないこう=権力争い)と曾国藩の指揮する包囲軍の猛攻撃に堪えきれず、遂に洪秀全首領が陣中に毒を仰いで死んだのが同後3年(西暦1864年)6月15日。この時まで13年の長い間、長髪族のために官軍は悩まされたのです。
この間、攻守両軍とも随分な奮戦苦戦もありましたが、また時に戦陣の無聊に苦しむ事も度々あったのです。そこでその徒然を忘れんがため、また一面士気を鼓舞するためにと、彼の王嘉莫、屈介幹、楊両之、郭受齢の諸氏によって考案されたのが此の麻雀の遊びでありました。
随って此の麻雀に戦功の懸引と長髪賊の乱に於ける攻守両軍の将領等が多く意味づけられて包含されているのは当然です。殊にその考案者中には湖南人と浙江人とを含み、且つ北京に官吏として在住した人もあるので、諸種の材料が交錯し提供されて居ります。
殊に南京攻囲軍中に英国陸軍少尉チャールズ・ゴルドンの率いる洋槍隊の外国兵士も多数いたため、その発案材料中に、馬吊、骨牌、将棋等の他に、外国人の弄ぶトランプの遊び方も多く立案されたのであります。
最初、王嘉莫氏等の考案せられたものは随分変手古なものであつたのが、色々やつて居るうちに改変して、長髪賊が亡びた頃には概略今日の如き形となつて居たのであります。
そして麻雀が4人で遊ぶといふことは、四角な卓を囲むと言ふ事にも拠りますが、長髪族討伐の四大将、すなわち一等侯・曾国藩、一等伯・李鴻章、一等伯・曾国茎、一等伯・左宗棠の四将をかたどったものであります。
王牌(ワンパイ)とか兵牌(ピンパイ)と言ふ名称は軍事になぞらへてある為で、先に出るのを兵牌、後に残るのを王牌と言ふのです。是は日本の昔の軍のやうに、大将自ら陣頭に立って奮戦すると言ふ様な場合が支那には少なく、王将は常に後より出陣指揮する習慣からでありませう。
王牌を十四張と決定した事は、長髪族の首長たる洪秀仝が事を挙げるに先ち、その学友たる王綸干に諮つたのです。その時、王綸干が洪秀全の吉凶を卜しました。然るに「後来定有五之尊』と易にでました。更に洪秀全が卜すると 『後来定為義君師』と出ましたので大に悦び、決心を固めたと言ふことです。
で、その時の王綸干の卜した『後来定有五之尊』と言ふことに因り、廣西の永定州に於て太平帝王を宣しました。そして自ら天王と称し、地王以下十三王将を作り、四十八人を丞相軍師に任じ、136人に位階を授け、八百余人に有功賞を與へたのであります。
即ち天王・洪秀全、地王・洪福(洪秀全の長子)、安王・洪仁發(洪秀全の長兄)、福王・洪仁達(洪秀全の次兄)、東王・楊秀清(左補)、西王・粛朝貴(右弼)、南王・馮雲山(前導)、北王・韋昌輝(後護)、忠王・李秀成、補王・楊輔清、護王・陳坤書、侍王・李世賢、納王・皓雲官、康王・汪安均 以上、十四王をかたどって十四王牌としたのであります。
また是に依つて和程(ホーチョン=アガリ役)の天和・地和、風子副の東・南・西・北の起源名称も肯(うなず)かれるでありませう。また麻雀牌数が結局136枚とされたのも、この時の授位者数に起源されたものであります。
この後、地王・安王・福王は臣籍に非らざるを以て除外し、翼王・石達開、徳王・洪大全、寧王・周文佳を加へて十三文爺と称しましたが、それは後のことでして、やはり基準数は十四王将を型取つて作られたのであります。
如斯4人の攻囲大将がこの十三王将を既に捕虜にして居るのだがもうあと一人肝心の天王を捕へなげればならぬと云ふ意味の遊びを考案したのであります。4人の攻包軍の大将の内、誰が一番先に天王を捕へるかと言ふのが遊戯の性質なのであります。
処がここに最後の王牌に達したときはと言ふに、それは攻囲軍の四将軍がよく心を一致して終(しまい)に一斉に十四将を獲保し得た事として戦を終わるのであります。すなわち王牌平局となるのであります。
これから考へれば、現今問題になっている十三牌基準、十四牌基準なぞも議論の余地はありません。各四将軍が十三枚宛持って、如何にして完全な十四を得ようとする遊びであることが解るでありませう。
牌の総数が高位階者の数、136にされたのは、色々改良の末、決まったものでしてこれは後に決まったやうです。最初は馬吊に似た48枚を改良増牌して、花牌も使ったのです。次に将棋に似た王牌、兵牌を意味して94枚となりました。
それでもどうでも面白さが少なひと言ふので、次には外国兵の弄んでいたトランプに似せ、1より13までの数の兵(万子)、銭(筒子)、槍(索子)の3種4組の156枚としてみました。
しかしそれでも単純で面白くなく興味が少ないと言ふので更に改良され、天地人と東南西北の七王牌と、兵士(万子)、軍銭(筒子)、槍器(索子)の3数牌と、殻(白板)、肉(紅中)、采(緑發)の3糧食を加へた148枚となり、遂に今日の東南西北白發中、万筒索の136枚となつたのであります。
麻雀の技巧的性質が小島素心氏の唱導せられる三技基準であるのに、同一牌が4枚あるのは何のためかと言ふに、これは競技者の均等と、もう一つはトランプの数から考案されたものであるからです。そのためいろいろな役をつけなければならなくなったので、これは3枚宛でも差し支えないと考案者の王嘉莫氏は言っていたさうであります。
それによって私は、小島素心氏の三枝基準論に肯かれる事を、もう一つ聞いておりますからお話しします。一刻(イーコー)、一順(イーシュン)、それを三牌基準と定めた事は、洪秀全が太平天国を宣したとき、「三字数」と称する三字を一組宛に綴った詔書を出しました。その三字基準を起源として定められたと言ふことです。
この三字数と言ふのは1種の立法のごときものでして、「如斯して処世せよ」と言ふのです。そこで、その三字一組宛を守り進むと云ふ意味の因に定められたのです。そしてその行為が十四牌和了までに最も適して居たことも勿論考慮されて定められたのでありませう。
前にも述べました通り、十四牌を以つて和了牌とした事は如何にして南京城に立てこもる長髪族の軍を攻め、其の十四将を捕虜にすべきかと言ふ意味で競技が仕組まれてあるのです。そこで井圏を作つて南京城壁を型取り、取牌と定めた処を開門と言、戯牌(シーパイ)とは言はずに打牌(ターパイ)、打麻雀(ターマーチャン)と言ひます。
A注:打牌(ターパイ)=“牌を打ち出すこと”ではなく、“麻雀をすること”。
そして井圏(チンチュワン)の中を“場”と言はずに“河”と称へます。河に打ちたる牌を浮屍牌(フースーパイ)と言ふ。これらはみな、南京城攻略に当たり、長髪族の軍士を捉え、斬殺銃殺せる死躰を河に投じた事から起こって居るのであります。
つまり支那人特有の縁起から、自摸、即ち井圏(城壁)から外へ出て来る兵牌を1人宛次々に打ち殺し、早く王城(王牌)の下に迫り、盟下の誓をなさしめるのが遊戯の目的で作らたものです。
当初、荘風(チョワンフォン=場風)は戦李と称して春夏秋冬の四圏戦、門風は現在の東南西北で、4人の攻囲将軍が四方から互に戦功を争ふと言ふ意味のものです。最初の遊び方は一寸(ちょっと)双六(すごろく)に似たものであった。それが追々和了第一主義となり、一家和了主義にまでなってきたのであります。
そして手牌の十三を完全なる連絡団結状態となし、最後の1牌、即ち盟主・天王を合わせたる十四枚となりたるものが第一和了者、それから第二和了者と、順々にその順位を争ったものです。もちろんそれは王牌に到達する間での間にです。それから漸次変遷し、数の争ひ、即ち籌馬(ちょうま)を生じ副(ふ)の計算が生れ、遂(つい)に翻牌の設定となつたのであります。
以上は私が支那に於て調べ得た処であります。
曾って小島さんが、麻雀春秋誌上で発表せられた。「麻雀は畢なる戦闘競技ではない」との謂に対して、同好者間に大に議論が起りまして大変問題になつた様です。私の友人なぞも「あれは無茶を言ふて居る」、「狂人染みて居る」なんてナンセンス的に批評して居りました。
然し、その頃私は既にこの起源を知つて居ましたので、やはり外にも麻雀の本質をこの方面から究めて居る人もあると思つて居りました。
その後、度々の小島さんの文献に表れて来る研究がどうも私のそれと一致して居りますので、機会を得て是非お眼にかかつてお話を承って見たいと思つて居りましたところ、先日大阪の中央公会堂で開催された日本聯盟の大阪麻雀大会の席上で目にかかりました。
その折これについて御意見を承りたいと申しましたところ、小島さんは「どうも私はこれまでの諸説はもちろん、支那の有名な文献でさえ首肯することが出来ない。私はもっと根拠のあることを信じて疑はない。いかに支那の名著だからと言って、腑に落ちぬことは信じる訳にいかぬから、あなたにそんな材料があるなら、是非見せていただきたい」との事でしたので、今日、みなさまお揃ひの席で発表させて頂いた次第です。
この説は、支那人でもあまり多く知らないらしいです。もちろん疑へば、私の聞いた当時現存の王嘉莫氏が、「自分が考案者だ」と出鱈目を言ふたとも言えませう。然し出鱈目にしても、これくらい理論的なものなればいいではないでせうか。例の揚子江の船頭の話や北京の女官の説よりは遙かにましでせう。
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編集室より
本稿は麻雀界未見の起源に関する研究論として掲載するわけであるが、其の考証が却って牽強付会ではないかとの疑ひも抱きうる。
しかしこれをロマンチカな起源論と見れば、吾ら牌友の心底に触るる何物かゞあらう。(天野生)
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