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    (26)麻雀遭難記


 前項に続いて、旧日本軍関係者・景謙という人が語る、中国における麻雀関連のエピソード(日本麻雀連盟機関誌「麻雀春秋29号(s6/01)」掲載)。

※読みやすさを考え、句読点など原文を損なわない範囲で最少限、手を入れてある。しかしできるだけ原文のままとしているので、若い読者のには分かりにくい箇所があるかも。

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 重慶が四川軍の手に陥落した日、私は梟台衛門に居て當時の靖國軍副司令官だった李烈鈞氏を江南に避難させ、私もすぐ其後を遂ふべく馬に乗って途中定宿として居た重慶唯一の日本旅館又来館に一寸立ち寄った。所が驚いた事には雲南我等と同行してきた靖國軍の高級幕僚や議員の人達が、不意の敵軍来襲に逃げ場を失って、皆此旅館に逃げ込んで居るではないか。

 私は自分の荷物を整理したら、すぐ李烈鈞氏の跡を遂ふ積もりであったが、恐怖でおのゝいて居る是等友人達の様子を見ては、又宿屋又来館の迷惑さも思って、無氣に見捨てゝ出掛ける譯にも行かなかった。そこで躊躇して居る内に、李烈鈞氏は丁度敵軍北門侵入に引き違へて南門から無事江南に渡り、衛戍司令官の盧子材族長は城内で戰死したが其部下の大部は無事江南に引揚げ、城内の要所は已に敵に占領されたと云ふ事等を知ったので、是等逃げ込んだ人たちを保護するために一時又来館に踏みとどまる事にした。

 暫く定まると糞度胸に落ち着いて、早速ソワソワして居る連中を勧誘して呉介璋参賛(革命當時、江西の督軍をした人)、葛光廷参議(元日本留学生。先頃、閻錫山の氏表となり、奉天で活動した人)、余維謙参謀長(元日本留学生)の三君と又来館の元閣上二階の私の部屋で麻雀戰を始めたのである。

 此部屋は麻雀戰では私にとって餘り香ばしくない部屋で、半月程前大三元を包した事があった。筆の序に私の失敗を白状すると斯のようである。

 東風で丁度私が荘家の時、第一巡の終わりに上家が紅中を石並した。此時私の手の中には東風が1枚あったが、第二巡の始めに又東風を自摸して来た。而かも私の手の中には搭子が揃って比較的容易に和了出来る様に思はれた。

 第三巡の時、對家が緑發を捨てたら上家が又之を石並して愈々大三元包牌と云ふ事になった。上家は緑發を石並して東風を捨てたので、私は大喜びで之を石並して兩飜の資格を作った。然し此時私の牌は未だ定牌にはならなかった。

 更らに一巡の終りに上家は自ら白板を抛り出した。此時一同は内心ヤレヤレと思った様で緊張の氣が少し弛んだ。然しそれから二巡する内、誰れも續けて白板を出す者はなかった。恐らくは誰もの手の内に白板を持って居るものがなかったのだ。

 所が其次の巡りに(此時は私の手の内は已に3・6索で定牌して居た)、私が白板を持って来た。私は上家が打ち出した白板故大丈夫と安心して何の氣なしに抛出すと、豈図らんや上家は“和了”と云って牌を倒した。見ると白板が二枚、正に大三元である。

 私は丸で狐につまゝれた様だ。よく聞けば上家は始め白板を捨てたあと、又直に引續き二回白板を自摸して来たとの事であった。
浅見注:中国麻雀に振り聴ルールは無い。現在の中国公式ルールでも同様。

 閑話休題、麻雀はやるものの、一同心中の不安にあんまり気乗りしない。随っておもしろい快打もなく、三圏の終わりに近づいた時、遙かに二階の窓下の大門口が騒がしくなって、閉ざされた門扉をドンドンと打ちたたく音が聞こへだした。そこへ宿屋の番頭さんが飛んできて云ふには、城内に入り込んだ四川軍隊の一部が遣って来て、又来館を取り囲んで何でも此中に靖國軍の秘書長や参謀長が居るから捕らへるのだと云ってワイワイ騒いで居るのだと知らせた。

 幸ひ又来館の建物は新築の洋館まがひの支那家屋で出入り口も頗る堅固に出来て居て、門扉を閉鎖すれば中々侵入は六かしいので、包圍した敵軍は門前に集まって一部は隣家の屋上に攀登って銃を据えて我等の脱出を監視して居るに過ぎなかった。

 之を聞いて二階に居た李秘書長や熊秘書などの文官達は青くなって隅の部屋に縮まって居る。然し流石は多年革命に健闘した連中状けあって、呉参賛や余参謀長、葛参議などは、稍不安の色は見えるが平氣でとうとう四圏を終わった。此處一寸支那芝居にある孔明の空城計と云ふ格好だった。

※浅見注:三国志の時代、孔明が防備手薄な城に居るとき、その城を敵に包囲された。そこで孔明はわざと城門を開けさせ、城壁の上で城主と囲碁を打った。それを見た敵軍は、「なにか謀りごとがあるのではないか。このまま攻めると危ないかも」と怪しみ、引き上げてしまった。これを孔明の空城計という。

 包圍中の麻雀戰はかくして兎に角四圏を終わったが、空城計はこれからが愈々本舞臺となったから、詮議ながら其一くさりを。

 是は此日午前の出来事で、私は敵がいくら包圍しても晝飯時にはどうせ喫飯に行くから包圍は解かれることとたかを括って呑気に構へていたが、中々晝飯どころか一歩も退く様子が見えない。門前の騒がしさは一層増すばかり。仕方が無いので二階の窓から顔を出して敵の指揮官と談判を始めた。

「此家は日本人の宿屋ですよ。君たちはなぜ此宿を包圍するのですか」
「此中に李烈鈞の参謀長や秘書長が逃げ込んで居るから、それを捕まへに来たのだ」
「そんな人達は知りません。兎に角日本人の宿屋ですから、貴君方が捜し度ければ、日本の領事さんを同道してお出でなさい」

 敵の兵隊は窓から半身乗り出して話をする私目掛けて鐵砲をむきつけ、今にも發砲の姿勢を示して居る。危険至極だ。夫れでも流石に發砲もしなければ門を破って侵入もしなかった。

 此幕は此日の夕刻、李烈鈞氏の友人である四川の老資格者尹晶衛君(日本士官学校出身者)が急を聞いて駆けつけて来ると、敵の先鋒司令官と談判して呉れたので漸く終わった。

 然し此麻雀の道程は未だ之状けでは終わらなかった。私達は此年の暮れから翌年の夏迄を貴州の東部鎮遠に送り、漸く南方革命の気運がほの見えたので、十年の秋には貴州から黔湘の境苗族の住む地を経て廣西省の桂花香る桂林に出て、此處に大本営を建設して孫文氏を迎へ、第一次の北伐を計畫した。

 愈々機運が熟したので、民國十一年の五月には北伐軍が廣東省の北部嶺南の地、湖南江西省の邊境に集中して江西省に向ひ北伐運動を開始した。そこで私共も愈々北進する事になって用船を装して桂林を出發、景色の良い桂紅東に向ひ、梧州へと下航した。

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