遭難記といっても、麻雀でヒドイ目にあったという話ではない。麻雀をしているときに、大変なことが起きたという思い出話。日本麻雀連盟機関誌「麻雀春秋29号(s5/12)」に掲載された、景謙という人が語るエピソード(日雀連は、当時、まだ空閑緑代表の時代)。
文中の表現から、「景謙」という人物は関東軍の関係者では、と推測されるが、残念ながら詳しいことは分かっていない。特徴的な名前であるから、きっと旧軍関係者なら、分かると思うのだが。
文中にある通り、このエピソードは大正九年から十年にかけての中国における話である。大正6年12月、肖閑生の「麻雀詳解」によって、麻雀が初めて日本語で紹介された。そして大正8年6月には、井上紅梅の「支那風俗(第3巻6号・上海日本堂)」によっても紹介されている。
しかし日本に麻雀ブームが起きるのは、まだまだ先のことである。
麻雀遭難記は、そんな時代、日本軍関係者がすでに該地において中国人と麻雀を楽しんでいたことを証する貴重な資料である。
文中で語られている、の連風牌をガメるという麻雀シーン。ただ読んでいるだけではどうって事はない。しかしこれは、この時代、すでに中国人の間でも連風牌ルールを採用していたという事を示す貴重な記述である。* * * * * * * *
話は大正九年から十年にかけ、南支那で今の國民政府の基礎をつくるべく長江以南を縦横に飛び回っていたときの事である。
李家花園麻雀最中の銃声
民国9年(大正9年=1920年)、夏も終わろうとする頃、我ら一行は雲貴川2千里、45日の駕籠旅を終えて雲南の都、昆明からはるばる四川の重慶にたどり着いた。この一行は、雲南で時の督軍、唐棹堯氏と万事の打ち合わせを済ませ、四川の重慶に新たに国民政府を建設して孫中正先生を迎えるため先発した参謀部長、李烈鈞氏を頭とする連中で、その中には○情成君や謝持君などの純国民系の議員達も居った。
もちろん是までに北京政府に対峙して広東に軍政府はあったが、始めのうちはやや革命的な性質を帯びてはいたものの、後には陸栄梃一派の広西派の勢力が跋扈して、まったく北方軍閥と大差ないものになったので、前に革命の精神に燃ゆる愛国の志士達が此行を企てたのである。
斯くして一行が重慶に到着すると間もなく、広東から湖南を経て重慶方面に集中前進してきた。瀟軍の盧子材、張懐信、楊盆譲等の指揮する雲南軍三ケ族團も到着して、合江、永川以来の揚子江両岸地域は我が勢力範圍となったのである。
しかし今度の重慶に国民政府を建設して非常議会を招集すると云ふこの計画は、肝心な四川の人たちによく相談していなかったため、且又当時雲南の唐棹堯氏が兼ねて大雲南主義を抱懐し、貴州の督軍、劉顕世氏と協力して、前々から四川侵略を企てていたため、瀟軍に対する蜀軍の勘定は頗る悪く、蜀軍の将卒は私たちの計画の如何を問ふこともなく、國民黨の同志で四川の有力者であった熊克武君の軍隊までも反抗してきたため、遂に其の計画の大齟齬を来たし、四川軍を敵として闘わねばならなくなった。
何しろ我らは○軍万里遙々四川に入ったものの、其の上部下の兵力も少ないので、どうして四川軍に敵対することができよう。始めは銅梁、内江の線で頑強に蜀軍と対峙して居ったものの、多勢に無勢、雲南からの応援も間に合わないので、遂に敗戦の憂き目を見るに至った。十月中旬の或る日、私は李烈鈞氏と一所に、重慶城百十二里、右に嘉陵江、左に揚子江を見晴らす風景佳絶の浮閻ぶの辺り、李家花園にあった。
私の居る二階の部屋から見渡す嘉陵江南岸の眺め、低く高く遙々と展開する山々には紅葉の錦が彩られ、その間を瓶の帯のやうな江水が流れ、それを點綴して悠々上下する民船の様など、如何にものんびりした平和な表現であるが、時折けたたましく階子を駆け上がって来る傳令使の報告は、次から次へと第一線の不利と退却を知らせてくる。不安は刻一刻と増して、折角の絶景もいつもの様に楽しくは眺められない。
丁度其処へ瀟軍の総司令朱倍徳君(現在の南京政府参謀総長)が今後の行動打ち合わせに、参謀長の萬舞君と遣ってきた。一通り話が済んでから、どうです久しぶりでとの申し込み。こんな場合、却って絶好の消間と、早速其場に居合わせた周副官長と四人で、卓を囲んで中發白の争ひを開始した。
大した勝敗もなく1回が済んで第2回、私が南の南で1枚だけあるを自摸でもう1枚持ってこようとガメっている最中、不意に前方の浮閻ぶの方向でポンポンと銃声が聞こえだした。未だ敵がこの辺まで来る筈がないと思ひながら、私は猶も頑強に南風の自摸に努力していた。其内に又引き続いて一斉射撃の様子が本物らしいので、残念ながら南風の自摸を断念して、一同は籍を立って様子を見に、展望のきく西側の高台に行った。
私たちの居る李家花園から浮閻ぶは、谷を一つ隔てた三支里ばかり西の高地である。此処は浮閻ぶの名が示す様に、両側に嘉陵江と揚子江が遮って重慶西方の開門をなし、重慶から成都へも徐州へも行く道は、この辺で分かれて居るのである。前方へ派遣した偵察将校の報告では、この日、我が第一線をどう潜ってきたか、敵の奇襲部隊が不意に浮閻ぶ前方に出現して留守隊を奇襲したが、浮閻ぶには瀟軍の精鋭一大隊が居ったので難なくこれを撃退したとの事であった。
察するに此の奇襲部隊は四川によくある牢士匪の土着軍隊で、百姓が鉄砲を持った様な恰好で、一寸土民と見分けがつかないので、こう易々と我が第一線に侵入してきたのであらう。かうなるとウカウカこんな処に居るのも危険なので、我々はその日の内に李家花園を引き上げて重慶城内の梟臺衛門に引き移ったのである。
斯くして数日の後、四川遠征の我々一行に遂に最後の日が到来した。西方及び北方から潮の様に攻撃前身してくる蜀軍に押されて我々の唯一の足溜まりとした重慶も敵手に陥落する悲運となり、李烈鈞氏は危機一髪難を江南に避け、退却した瀟軍と一所に貴州路に落ち行かれたのである。
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