History 歴史

    (20)日本最古の雀譜


 「牌譜」といえば、日本では摸打が記録された用紙として認識されている。これは将棋や囲碁の記録を棋譜というので、そこからの連想で日本でできた用語。しかし中国には昔から牌譜という表現/用語がある。この中国で言う牌譜は、麻雀の戦術格言のこと。

  おまけに中国麻雀には、そもそも一摸一打の記録を取るという発想がない。そこで中国人に「日本の牌譜を見せてあげる」と云ってどっかの麻雀大会の記録用紙を見せると、中国人は眼をシロクロさせる。(笑)

 なぜ中国に一摸一打の記録を取るという発想がなかったかといえば、麻雀は中国において純粋のバクチであったからである。日本でも花札や手本引きのやりとりと記録することはないが、それと同じ感覚である。

 しかし麻雀は、日本においてバクチというのではなく、新しい知能ゲーム感覚で普及した。そこで当初から麻雀団体が結成され、段位なども発行された。その一環として、日本では伝来後まもなく牌譜の作成が勘案された。

 もちろん日本の先人は、中国に牌譜なる表現があり、それが戦術格言みたいなものを意味していることは百も承知。そこで当初は雀譜(じゃんぷ)と表現されていた。しかし戦後、専門誌上で記録が掲載されるとき牌譜と表現されたため、いまでは麻雀の記録=牌譜というイメージがかなり定着している。

 さてその日本最初の牌譜は、昭和4年7月13日、当時の日本麻雀連盟で採譜された。対局者は当時最高の打ち手と云われた天川義一、後に日本最初の名人位を追贈された川崎備寛、日本雀界の重鎮、李天公りてんこう田中貢(たなかみつぐ))と、ライオンマン長尾克の4人。記録者は麻雀学の祖・榛原茂樹、彦左衛門のニックネームで知られる河村一郎、そして三島泰雄みしまやすお)に伊藤忠夫である。

 ゲームは四風16局行われ、その記録がすべて残っている。しかしここに掲載するのはとっても大変。。。そこで結果だけ記すと、起家の天川義一がプラス570符でトップ、川崎備寛プラス122符、長尾克マイナス140符、李天公マイナス552符であった。

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