現代麻雀では50符一翻、あるいは25符二翻の役。しかし近年の一般麻雀では、30符二翻というケースもある。このような相違は七対子の成立過程に原因がある。
七対子は中国古典麻雀の一部でも特殊なアガリ型として採用されていた痕跡がある。しかしもちろん一般的なものではなかった。明治時代末期、上海在住の米国人や太平洋航路の米国船を中心に麻雀が普及するなかで、七対子も市民権を得た。また同時期に日本へも伝来した。
七対子のアメリカ名は、Seven Twins あるいは Seven Pairs であるが、日本へは太平洋航路経由で伝来したこともあって、日本では「アメリカ」とも呼ばれた。
当時の麻雀に「縛り」は無い。そこで普及したのは100符無翻方式であった。このアガリ点は子で400点、親600点となった。これは現在の一般麻雀に換算すると、ほぼ30符二翻の得点(1600、2400点)に相当する。、というよりアガリ役も少なかった時代なので実質二翻以上の価値があるとして認識されていた。
しかし当時結成された麻雀団体では、ほとんど採用されなかった。また採用された場合でも、他役との複合はいっさい認められず、下記の形はすべて同じ得点であった。
これは七対子は、アガリ役というより悪手の救済という認識が強かったからである。しかし“これでは”というので、一般麻雀では複合を認るようになっていった。
第2次大戦後、日本では一翻縛り麻雀が普及した。「縛り」がある以上、無翻では不都合となる。そこで七対子は無翻から50符一翻となった。一翻となっても連底100符が50符に半減したので得点は同じである。
もともと麻雀のアガリ点は四翻点打ち止め計算(五翻以上はカット)=満貫であった。しかしやがて一般麻雀では満貫(四翻=両ゾロを加えて六翻)の上に跳ね満貫(六翻=両ゾロを加えて八翻)、倍満貫(八翻=両ゾロを加えて十翻)などが誕生し。これまでの単一満貫制度が崩壊した。
それとともに七対子を含んだアガリは合計が四翻以内のときは50符一翻計算のままであるのに、五翻以上の場合だけ「もともと二翻の価値があった」として二翻として勘定される様になった。といっても、あくまで表向きは50符一翻であった。
かなりの期間、このような方式で計算されてきたが、昭和40年代に入ると「四翻までは一翻計算で、五翻からは二翻として勘定するのは不合理」として、25符二翻計算とする方式が採用されだした。これは計算の理屈を調整しただけで結果は50符一翻と同じ得点となる。
この方式もかなり普及したが 昭和50年代に入ると、25符という特殊性が敬遠され、またさらなる簡略化を求める風潮から30符二翻計算も普及してきており、現在に至っている。
なお七対子は異種牌の七対子が基本であるが、中国麻雀の定座法というルールでは、未槓子を含む型も七対子として認めていた。また日本でも、関西の立直麻雀の一部に、通常より一翻アップの七対子として扱うルールが存在するという。
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