Classic Tactics 古典技法論 

     (9)理論的麻雀技法(4)


 
前項に続き、昭和6年3月、林茂光麻雀研究所発行の専門誌「麻雀」に掲載された、沼崎雀歩の麻雀論。
                                                 

  数理を加味せる牌技の一端

 話はかはるが「日本の麻雀は支那の麻雀と違ふ」と云ふ言葉をよく耳にする。殊に日本で麻雀を覚えて、現在一般人士よりやや技の進んだ人々に斯る言を口にするものが多い。しかしながら明日の麻雀はいざ知らす、少くとも今日の麻雀に於いては其の主要部に何等の相違も私は認め得ない。

 成程、闘技単位は日本では四圏であるのに、支那では四圏数回である、又此れは遊戯的精神を主とするに反し、彼は賭博的手段を主として居ると言ふ二項に於ては相異を認める。しかし競技の根幹ともなるべき規定及其の競技法に至つては結局同じ流れを汲めるものであつて、共聞に逕庭有るを見ない。

 即ち前掲の相異は単に競技を開始するに当たっての心持ちの問題であつて、技量としての問題では有り得ない事を知る。私は敢えて麻雀の功徳や弊害を云々するのが主目的でないから、之は後日の機会に譲るとして、此処では技量と言ふ事のみに就いて考へて居る事を御承知おき願ひ度い。

 日本の麻雀は其の技量及研究に於て本場を凌ぐに至つたなんて無定見な喧伝家の言が禍をなして、無邪気な大衆はほんとに左様だ位に思つて居るが、之も亦誤れるの甚しきものである。今日雑誌に散見する所謂大家以外に無名の達人も有る事だらうが、少くとも私が知つて居る限りでは、支那一流の大家と伍して互格の勝負をし得る人が幾人あるであらうか。

 倦かの日数で彼地に渡り、市井の支那人と数度の手合せをして、正に支那の大勢を論断せられては、本場と歴史に対しても可哀想だ。又在支数十年に及んでも、必ずしも支那の麻雀界の眞諦を掴み得たとは言ひ得ない。

 其の道に於ける相当の知己無くして支那に於ける一流大家の打風や技量を論定する事は、大衆の見解を誤まらしめる点に於て多大の責任が有ると考へる。

 私は支那の麻雀界についてはあきたらす思つて居る一人である。しかしそれは技量に関してゞはな〈、其の研究についてゞある。彼等と雖も研究はして居る。けれども其の研究たるや、統計的なもののみで、多くは経験として締約されたものであつて教理的の研究に乏しい。

 統計的の結果が無意義だとは決して考へないが、理論と実際とが車の両輪である以上、両者を平行して研究するのが万全の策ではないかと思ふ。私の考へでは理論のみにとらはれて、之を直ちに実際に應用したなら、其の立論の正否に就いて、必ずしも正常なる判断を下し得ない為に、時としては甚だしき誤謬に達するがあるだらう。

 又統計的の結果に依つてのみ研究してゆく事は確に堅実な方法ではあらうが、進歩に長時日を要し、之亦充分なる方法ではない。

統計的の研究は各個人々々が独立してやつては、頗る手間取るのであつて、私は多数の熱心家の一致協力にまつならば、之もかなりに時日を短縮し得る事を考へるが支那では之がないらしい。唯々牌歴によつて注意深い観察を遂げて研究を進めると言った風なのが殆どのように見受けた。

 然し強い。私は到底彼等を向ふにまわして日本は支那を凌駕するなんて大言壮語するだけの空元気は持ち合さない。かう書いて来ると、私は如何にも支那讃美者の如く見るかも知れないが、実は左様ではない。理論強調者であつて、支部式研究に対して何度までも排斥して居る一人なのである。

 理論と牌歴との併有論者で保守的な支那式研究法の欠点を極端にまで云々して居る此私でさえ、今日の技量については支那へ一歩も譲る程、まだまだ日本の麻雀は大成どころか大成しょうとする所までも到達して居ないと信じて居る。

 最近各所に研究団体が起りつゝありと聞いて、此意味に於て私は頗る満足して居る。日本が技量に於て支那を凌駕する時代が釆たなら、それは理論的研究の結果以外にない。而も各人各所の研究の綜合的結果でなければならない。此故に私は一石を投する。そして波紋の動きを見よう。

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