数理を加味せる牌技の一端
日本ではよく大会を開く。そして之が雀界に於ける登竜門なるかの如く主催者も思はしむる事に努力し、競技者も勿論第三者さえも左様心得て居る。之が技量を進歩せしめない原因の一となっては居ないだらうか。
私は大会自身が悪いとは言はない。大会に於ける入賞方法に技量を無視した点があると思ふ。採点方法によつて此欠陥を除外しようとする運動が最近起つたが、此も結構であつて大いに研究結果を発表して頂いて参考にしたいと考へて居る。
しかし此丈で果して欠陥全部を除き得るだらうか。此処に大きな疑問があると思ふ。之に関しては少しばかり意見を持つて居るから別に稿を起して江湖の批判を仰ぎたい。
繰返して言ふが大会がよくないと言ふのではない。趣味等の要素を度外硯して、技量のみについて言ふと、詳しく言ふなら理論的研究を奨励すると言ふ目的から言ふと、現在の大会制度は著しく研究心の勃興を妨げて居ると言ふのである。
それは何故か。未熟者が入賞する事があると言ふ事実も一原因だが、無茶苦茶の做牌主義を誘挙せしめる結果、各人が日常の打ち方をして居ない事実が一大原因である。これは大会麻雀の戦法としては無理からぬところがある。或は通常なる方法とも言ひ得るだらう。
処が各人の真の技量は統計的記録だと前に述べた。此故に大会の如き短期(大抵四圏戦四回位が最長であらう)の聞に新技を具体的に表示する事は困難である。止むを得ず運気に任せて做牌主義を取つて他卓の人々に対抗せねばならなくなる。大体自分と一回も対局しない人の成績と同一レベルで評価される事が斯る戦法を生んだ最大原因であらう。
然し私が此処に技量を充分に発揮できぬ原凶を述べたが、或人は其処が凡て大会としての存在傾値だとも言ふだらう。前にも述べた如く此稿では技の問題のみに就いて書いてて居ると言ふ事を御記憶願っておく。
さて統計的には理論的研究が相当役立つ事は判明したが、一局については如何。そこで甚だ概念的であつて殆ど立論の正否を疑はしむるが如き算出法ではあるが、運と技との関係だけは知る事が出来る次の如き考察法を御紹介しよう。
以下述べる計算法は私が各地で漫談として話したものだ。咋年十一月、或地にて某氏と漫談としたおり此問題を話したところ、某氏がそれを雑誌「麻雀界」の正月号に書かれた。それは良いが、今一つ残念に思ふ事は、その稿を見るに私の言った事を正確に記載して居ない。
今一局の勝負に於て点教を考慮せすに、勝負に参加したる牌の枚教のみによつて一局の運と技とを概論して見よう。今、次の如き仮説を置く。
一、摸牌は運とし、打牌及吃・は技量とす。
二、ゲームは中間にて終局するものとし、摸牌九回、吃各々一回、和了は栄和とす。
第二の仮説は普通のゲームより推定したものである。然る時、下記のやうになる。
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配牌 |
摸牌 |
その時の打牌 |
吃各一回 |
その時の打牌 |
和牌 |
合計 |
% |
運 |
13枚 |
9枚 |
* |
* |
* |
* |
22枚 |
60% |
技 |
* |
* |
9枚 |
2 |
2枚 |
1枚 |
14枚 |
40% |
即ち一局に於ては和了の大半は運に依つて定まる事を知る。却詮此内打牌必すしも純枝ならず、又吃及槓に於ても運なる要素は見逃す事は出来ないのであるから、次の如く仮定しょう。
1、打牌に於ては七割の技量を認め、三割は天運及び坐席に依る運とする。
2、吃及栄牌に於ては五割の技量を認め、天運及坐席運を五割とす。
(此処に言ふ坐席運とは、上家・下家及対家の強弱を指すもので、勿論実際は、こんな常数的のものでない事は明である)
此仮定を前の計算に入れて稍訂正して見ると、下記のやうになるであらう。
運 |
天運のみ |
60% |
75% |
天運及び座席運 |
15% |
技 |
* |
25% |
合計 |
100% |
然るに、麻雀のやり方さえ知つて居るならば、これを技は零と言ふわけには行かない。人間として智識がある以上、誰しも麻雀の多少の心得は有るものとしなければならない。或る問題について正解者を100点とすると、約40点は人間の知識としての捨て方でゆけるものなのである。そこで技量を2分して純技60%、知識40%とする時は、下記のようになる。
天運 |
配牌 |
35% |
摸牌 |
25% |
座席運 |
* |
15% |
技 |
知識 |
10% |
純技 |
15% |
合計 |
100% |
之は、甚だ概念的ではあるが、以て一班を窺う事は出来るであらう。であるから一局の戦においては、配牌の如何と摸牌の良否が大勢を決し、如何なる大家と雖も悪配牌では殆ど和了は不可能なのである。此計算を合理的に行ふには、小符と和料及び満貫、進んでは規程にまで論を展開せねばならないから、之は機会があるなら本論の末尾に於て詳細に追求して見たいと思つて居る。
却詮麻雀の目的には種々有るであらうが、先づ直接の目的は勝つにあるは言ふまでもない。また勝つにしてもより多く勝つ事がより好ましい事であるに違いない。然しいくら多く勝つと言っても之には限度があると言ふ事は誰しも想像する処であらう。
今此勝つと言ふ問題を分解して考へて見るに、牌姿によつては「早上り」を主体とせねばならないものと、大役を企つべきものとがあるわけだ。又時としては最初から平局へと一路邁進すベきものもある得るわけだが、之は除外例とも見なし得るかも知れない。
そこで私は理論を快和を主目的とするものと大役を主眼とするものとに分ち、各々独自の見地より研究の歩を進め、後に此の両研究を綜合せしめ、然る後に牌姿に依つて如れの道に進むべきかの方法を探つて見たいと思つて居る。
機会が有れば次講では牌の価値なる題目の下に論を進める考であるが、此目的は快和にあるのであるから、此処に言ふ牌の価値とは早く組が完成されるについて優の劣であつて
点数を考慮した価値とは異る事を御承知願もたい。
快和と雖も他者を念頭から汲却して遂行する事は不合理ではあるが、先づ最初には他者の要、不要を考慮せず、専ら自己百%で和了へと進む事を主眼としよう。例へば次の如き甲、乙の手牌の時に如何にすべきか。
甲
乙
何れも恰度一枚打つ形となって居るが、甲に於て正しい事は必ずしも乙に於て正しいとは言ひ得ない事があらう。此を論及して少しでも理論的、組織的結論を導く事が出きるならば、実用的に価値があるわけである。
- 完 -
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