Classic Tactics 古典技法論 

     (8)理論的麻雀技法(3)


 
前項に続き、昭和6年3月、林茂光麻雀研究所発行の専門誌「麻雀」に掲載された、沼崎雀歩の麻雀論


 数理を加味せる牌技の一端
  
 次に上手な人で、理論のまるで説明できない人がいるが、そんな人は必す牌歴が古い。これは技量を理論に依つて基礎づけられすに経験によつて体得して技を向上せしめたのである。そして其の経験は何かと言ふと帰納された事実に他ならない。即ち一の理論を比較的長時日に渉つて統計的に体得したと見なすべきで、そんな人の雀譜を見ると、あんまり理論に無いような打ち方はして居ない。

 唯だ斯る人の体得の仕方は、えてして組織的でないので、牌歴の浅い者が真似ると往々にして大失敗を招く事がある。本家の牌歴者自身が正常なる判断を欠いて失敗を招く事が有るのであるから、初心者が失敗するのは自然である。

 斯る事柄は体得したる統計的結果の真意を極めて居ない時に起るもので、其の運用方法を誤つたとも言ふべきである。すなわち牌歴がまだ其処へ到達する程古くなかつた事に帰すべきであらう。

 以上述ペた事実に依つて分明する如く、体得者は初心者に納得ゆくように教授できない。此の二つ、即ち運用の真諦が充分呑み込み得ない事と、他者を教授する事が困難だと言ふ事柄が体得者の二大欠陥とも言ふべきであらう。体得者から教へを受けた人は牌歴によつて其の活用を知るのであるから、理論的方面から進んだ人よりも進歩のおそい事は否まれない。

 こう書いて来ると体得者は理論者よりも常に劣等の位置に在るように見えるが左様でもない。実戦に当たって体得者は牌の動きに封して敏感であつて、此点は到底理論者の真似も出きない処である。そして、それが勝敗の鍵を握る事が甚だ多いのだから理論者も亦、役割としては損な部類に属して居る。

 先に経験は殆ど理論と相一致すると言ったが、之を以てみても、「麻雀に理論なんか有るもんか、俺は実戦派だ」と称する、即ち体得者派の言葉も結局楯の半面を物語つて居るだけと言ふ事が判るであらう。
       
 技の賛美者、否、過大視者は理論家と言はれる人に多いが、理論専門で進むと言ふ事も完全ではない。先づ立論の正否の判定が頗る困難で、時とすると飛んでもない誤謬に到達して居る事がある。幸いにも誤なる事が後日発見できればいいが、そんな場合は割合に少い。

 次に立論して得た結果が実用的価値の乏しい事が之亦甚だ多い。趣味として広く天下に発表する事は一向に差支へないが、否、寧ろ之の活用法を見出す者が有るかも知れないだから是非発表を希望するが、直接には技の向上発達に大して資料とならない。

 斯く論じ来ると結局上手になるには理論と牌歴とを併有する事を必要とする事が判明する。即ち理論に依つて方法を知り、牌歴に依つて其の活用を知るのが最も健全にして確実なる道なのである。

 然しこうやつて上手になつたとして、さて得たものは何かと言ふと、時には下手に負けると言ふのでは全く、上手なる者として立つ瀬がないわけだが、現在では仕方がない。僅かに統計的記録に依つて満足すべきであらう。

 もつと希望を将来に求めて、ルールの合理化、採点法の改正を研究して、大衆を一日も早〈合理化運動に参加せしめるのが費明なる方法のように思ふ。

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