Classic story 古今小説 .

         (8)第二の接吻 (抜粋)


 文献上、日本で最初に麻雀に関する記述が登場するのは、夏目漱石の「満韓ところどころ」(明治43年)という紀行文。そして日本最初の麻雀小説といえば、村松梢風の「魔都・賭博館の娘(T13(1924)/6)」。小説中で闘牌シーンが最初に登場するのが、この菊池寛の「第二の接吻」(・T14・文藝春秋)。

 内容は倭文子
(しずこ)、京子、村井、宮田という4人の男女が、四角関係のあげく心中事件を起こすというストーリー。菊池寛自身、麻雀シーンを登場させたくて、この小説を書いたという噂がある。

 当時、「接吻」というタイトルは刺激的で、かなり話題を呼んだという。また当時、麻雀はまだ全国的に普及しておらず、「
第二の接吻」の麻雀シーンにも用語やルール説明的な文章が散見される。

 倭文子は遊戯が嫌いであった。麻雀なども美智子や宗三にすすめられるので仕方なしに牌を手にしてゐるものの、興味はちっとも感じられないのであった。だが今四人の群で四人なければ出来ない遊戯に、彼女一人ぬけることは許されなかった。
『えゝ』彼女は低く小さい声でうなづいた。

 牌は方形に並べられた。最初の荘家には京子がなった。方形に並べられた牌の中から一度に一枚づつめいめいの牌を取った。荘家の京子が、最初に九万とかいた牌を捨てた。『九万』彼女は勢いよくいった。

 『吃』、さういって横に居た宮田がその牌を取り上げると、自分のもってゐる牌の中から『東風』と叫びながら[東風]と書いた牌を手早く捨てた。
『ぽん』宮田が[東風] を捨てるのを見ると京子は咄嗟(とっさ)に叫んだ。
『おやおや、貴方の風 ですねえ。こいつは少々まゐった』宮田がいった。
『一筒』さういって京子は、[東風]を取った代わりに青と赤のうずまきをたった一つ書いた牌を捨てた。

 次の宮田は方形に並べた牌の中から一つ取り上げて、それを手駒の牌と見比べてから『北風』と叫んで北風と書いた牌を捨てた。『南風』今井が叫んで[南風]を捨てた。倭文子は心が少しも落ち着かず、手駒の十三枚の牌をどんなに配列して戦ふべきかさへ分からなかった。

 彼女がまごまごして居ると、
『倭文子さん、お早く!』と京子に注意されたので、あわてゝ、『発』といって、白い板に緑で[発]と書いた役札を捨てたが、『ぽん』といって宮田がそれを取った。

 ゲームはかうして進んだ。最初の一回は、京子が上りを占めて勝った。次は今井、その次は宮田だった。かうして一ラウンド近くになるにつれ、京子はよく戦ひ、今井と宮田とを圧迫するほどだった。親で勝つといつまでも親をつゞけられるのだが、京子は親で3回も勝ちつゞけ、連荘の名誉をほしいまゝにした。

『おどろいたね。こいつは頭がいゝ。これほど京子さんがうまいとは思はなかった』今井がいった。
『なかなか玄人ですね。ちっとも大役をねらはずに上りばかりを心がけてゐるなんて。どうして心得たものだ』宮田が感嘆した。
『そんなに賞めて置いて油断させようとしても、その手にはのらないことよ』
『おやおや、これは計略を見破られましたな』宮田は頭をかいた。

 京子が勝ちつゞけに勝ってゐる間、倭文子は一度も上りを取れなかった。外の人達が、もう何回となく上りを取っているのに、倭文子だけは一度も勝てなかった。勝たなくてもいゝと思っているものゝ、一度も上りを取らないことはあまりにきまりが悪かった。あまりに悲しいことだった。ワンチャンスになってゐたりツーチャンスになってゐながら最後の所で人に先んぜられた。
*ワンチャンス=一向聴、ツーチャンス=二向聴

 最初から手駒の配列が非常によく、今度こそはと思ってゐると、運わるく他人が二まはり位で上がってしまった。あせればあせるほど倭文子は上がれなかった。
『倭文子さんは、運がわるいですね。二チャンスぢゃありませんか』今井がいった。
『とっくに二チャンスになってゐましたの』
『それで上がれないのですか。お気の毒ですね』

 そんな同情をされると、倭文子は一層かなしかった。もう二、三回で一ラウンドが了(おわ)らうとしたとき、倭文子はやっと上がった。
*一ラウンド=一荘

 『ろん!』と小さい声でいって倭文子は手駒をさらした。
 『おめでたう』宮田がさういってくれたのが、きまりがわるかった。
すると、そのさらした駒をじろじろ見てゐた京子が、『倭文子さん、間違ってゐるわ。これ六筒ぢゃないの』

 七筒、八筒、九筒と数の順序に列べなければならぬ牌が七筒、六筒、九筒となってゐたのだった。間違って上がったと称することは”冲和“といって、大きい恥であるばかりでなく、他の三人に三百点づゝ罰料を払はねばならぬ大失策なのである。
『あら、どうしませう』倭文子はいきなりさらした牌の上に顔を伏せた。

 

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