(5)九尾亀 2(抜粋) (訳・榛原茂樹)
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前回は章秋谷による戦術論が開陳されたが、今回は当時の中国ルールが注目される。この章では章秋谷が小四喜をものにするが、これは、そのルールあってこそのアガリ。
中国麻雀が栄和でも摸和でも得点は3人払い、というのは前章で明きらかであるが、この章によって、中国麻雀では昔から「振り聴」は存在しない、即ち“自分が今捨てた牌でも下家が切れば栄和できる”ということが理解できる。またルールはかなり後期の中国ルール。これによってこの時代のルール完成度も把握できる
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西安坊の龍蟾珠(りゅうせんじゅ)の家だった。章秋谷が起荘(チーチャン=起家)で、もう両圏(リャンチュワン)済んだが、誰にも大きな手がつかず、楊子江下りの船旅のような眠気を催す牌心地だった。
そうして三圏目の荘家(チョワンチャ=親)が秋谷に輪(まわ)ったとき、ふと顔を揚げると対家の辛修甫(しんしゅうほ)の後ろに蟾珠が立っていて一人の見慣れぬ女とさも親しそうに話している。もう二十歳は過ぎたろうが、ここいらにはちょっと珍しいくらいのあでやかさ。いい意味での色好みである秋谷の神経は、ひとりでに一時に総動員された。
(どこかで見たような顔だなあ・・・)と思いながら手当たりしだいに牌を打ち出ししているうちにふと思い出した。(そうだ、天津の東閻楽(とうえんらく)にいた陸婉香(りくえんこう)に相違ない)と考えついたとき、彼は手の中にある紅中(ホンツォン=)の対子を切っていた。
「和了(フーリャオ)」と修甫が牌を倒す。見ると西風(シーフォン=)の明刻、白板()と二万()の暗刻、紅中()の明刻、九万()の雀頭で “ 門風・紅中・渾一色・対々和 ”、文句無しの満貫だ。秋谷は初めて気が付いて自分の手の中を見ると白風と紅中が一枚づつある。白風を切るつもりで紅中を切ってしまったのだ。サァ、王小屏(おうしょうへい)と陳海秋(ちんかいしゅう)は黙っていない。
「何を寝呆けているんだい」
「包(パオ=一人払い)だ、包だ。俺は払わないよ」と大騒ぎ。蟾珠も女も吃驚(びっくり)して飛んで来る。女は初めて秋谷の顔を見た。
「章二少(ツァンアルシャオ)じゃありませんか」
「やはり君か。どうしてこっちへ来ているんだい。天津(テンシン)も思わしくないのかい」浅見注:章二少(ツァンアルシャオ)=「章家の次男」の意。
女はもと上海にいたのだが、あまり売れないので天津に住み替えたのだった。秋谷とは天津での馴染みだ。その後、義和団の乱が起こって商売が思わしくないのでまた上海に舞い戻って蟾珠の客分になっていたのだった。
昔馴染みはなんとやらで、秋谷は夢中になって婉香と話し込んでいるので打錯了(ターツォラ=切り間違い)ばかりやっている。下家の王小屏が荘家の時、また東風()を振り込んで百二十和の筒子渾一色を和らせた。上家の陳海秋がたまり兼ねて叫んだ。「婉香にかわらせろ」
秋谷は打牌には自信がある。「一度や二度、悪牌を振ったって驚くな。今に取り返して見せるから」と減らず口を叩きながら摸牌(モーパイ=ツモ)している。
修甫の荘家のとき三十二和で和り、海秋の荘家のときも五十六和の万子渾一色を和り、また秋谷の荘家が輪ってきた。婉香が見ると秋谷の手には一対の東風()、一対の西風()、南()北風()一枚づつに万子と索子が三枚づつ、筒子が二枚ある。
「荘家の手じゃないな」といいながら索子を投げ出す。婉香は吃驚して止めたが秋谷はきかない。すると小屏が東風()を投げ出したのでポンして筒子を投げる。下家は要らない。修甫の番になって彼は南風()を捨てる。一回りして小屏が北風()を投げ出す。
そこで秋谷も断念して先に北風()を投げ出し、それから摸してみたら意外にも北風()だったので周章(あわ)てて今捨てた北風()を引っ込め筒子を打つ。そこへ修甫が聴牌と見えて西風()を投げ出したのでポン。サァ、四喜だと三人が警戒し出す。
その次の回りに何と幸運にも南風()を摸して来たので、南風()北風()の双ポンで聴牌してしまった。次に小屏が摸すると南風()。すぐ抑えてしまう。海秋が北風()を摸してこれも抑える。そうして「二人で一枚づつ持っているから大丈夫だ」と笑っている。秋谷は弱ってしまい、その次に摸してきた安全牌の九索()を一寸見せながら二枚ある北風()を切って出た。この計略が実は起死回生だった。
小屏はいま秋谷の手に九索()が入ったのを見、それに北風()を切って来たので「もう大丈夫、四喜じゃなかろう」と言いながら南風()を捨てたのでポン。そうして「今頃 南風()が出るんだったら北風()を捨てるんじゃなかった」と腹の中では笑いながら口三味線を弾く。そうして九索()を投げた。
海秋も麻雀は下手ではなかったが、いま秋谷が北風()を捨てたので(まさか北風単騎ではあるまい)と抑えていた北風()を投げ出したので、秋谷、「有難う」と牌を倒してしまった。立派な四喜だ。婉香もやっと秋谷の用意が判って自分のことのように喜ぶ。海秋等は唖然としてしまった。こうして八圏終ったとき、負けていた秋谷一人大勝ち、小屏と海秋がマイナスで、修甫は出入りなしという結果だった。
−了−
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*義和団の乱
白蓮教の分派といわれる宗教秘密結社。義和拳という拳法を修行すれば矢にも弾丸にも絶対に傷がつかないと教えた。一八九五年、ちょうど日清戦争の頃から山東省を中心に流行しはじめ、次第に勢力を伸ばしてやがて北京、天津にまで押し寄せた。しかし英、米、日などの8カ国の連合軍によってやがて鎮圧された。このことから、この小説の舞台が一九〇〇年(明治二十二年)頃である事が分かる。
*白蓮教
唐朝の頃、中国に伝来したペルシャの摩尼教と仏教が混合した宗教。明教とも呼ばれる。元(げん)を中国から駆逐した明(ミン)の国号は、この明教に由来するという。
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