夾竹桃(きょうちくとう)の眞紅に映へた江南の水辺は、のぴのぴとして太公望たちを喜ばすのももうすぐです。江南の春も称えられて居ますが、ほんとうに旅情を豊にするのは夏から秋にかけてです。唐宋時代からの文化の中心であつた江南は、明治以後ほとんど忘れられて居ましたが、今度の上海事変で新しくいろんな交渉をもつことになりました。
もう足掛け七年も逢ひませんが、南京の下関にある日清汽船会社のハルク・マスターをして居た張さん、店の買弁(ばいべん=通訳)だつた倪(げい)さん、張房だつた除さんなどどうして居ますか。今は一向に音信もありませんが、其の頃商用でよく蘇州や杭州の堂子で落ち合つたものです。
杭州では太湖に望んだ蘭亭に、額の広い杭州美人を擁して低酌しながら、涼風を浴びて麻雀卓を囲んだ風情は、一幅の唐画其の物を想起させられます。 柳楊の蔭には菅(すげ)の支那笠で真裸の漁人が釣りを垂れてをり、軽船に棹さして群鶏を飼っていたり、太湖巡りの画舫から絃歌が聞えたり、世俗を離脱した雅趣にのんびり浸れたものです。
先達っても小有天に南北宗匠を訪ねたら、「こんな気持なら眞創味ある闘牌も出来る。しかしそこに修養錬磨されたものが無ければならぬ」と、宗匠一流の禅味を聞かされたものです。
日清汽船会社のハルク・マスターをして居た張さんは寧波人でした。兎口で鬼歯が突き出て居たので、華人達には喜ばれない人相でした。然し牌を持たせたら神様で、南京、蘇州、杭州、上海一帯の江南地方から寧波へかけて、華人間にも恐れられた達者でした。
梅雨あがりの澄み切った太湖を眺めて、張さんは大四喜を四暗刻で四索単騎で聴牌していました。それは11,2枚目の打牌頃でしたと記憶して居ます。その内に中風(ツォンフォン=)を摸してきたので中風単騎に変へました。最も中風は生牌(ションパイ)でもありました。 此の聴牌は大四書・四暗刻・字一色と云ふ満貫役三つの重複で、稀有のものでもあり、見て居た長二(チャンアル=一流と云へる芸者の雅称)達が、一寸眼を光らせて交(かわ)る交(がわ)る立寄りました。しかしつとめで平静に成行を眺めて居りました。 今頃の倶楽部でこんなことがありましたら、必ず大騒ぎが始まると思ひます。それ程、今の倶楽部麻雀は慎みの無いものとなつて終ひました。しかし社交戯として発達し、消遣として楽しまれる会合に習慣づけられて居る長二達は、感心に静かなものでした。日本人からは無口で不愛相で、高慢に見える支那芸者は、こういう場合こと更に平静を装ふのが、此人達の慣習とも云へるものです。 この後、四索が打ち出されたので、四索なら和了して居たかも知れません。もちろん中風が打ち出されればがあったやも知れず、先行きは不明です。いずれにしても結局は流局となりました。 張さんは攤牌(タンパイ=倒牌)して笑ひました。そり身で大きく両手を延ばして、緊張しきつた心神を開放した様に・・・・・
攤牌された手を見た倪さんも、除さんも、顧さんも、一斉に騒々しく喜び合ひ、どっと大笑ひしました。そして手は直ぐに洗牌へと動きはじめました。 此一瞬の太平さを今でもまざまざと覚えて居ます。残念そうな顔つきも無く、やれやれと云つた様な態度もなく、太湖の水の鏡の様に滑らかな何のこだわりもありませんでした。
酒席に入つてから、張さんに 「(点数も変わらないのに)なぜ和了りにくい中風単騎に変へましたか」と聞いて見ましたが、唯笑つて居ました。
それから一週間も後でしたか、四馬路の堂子で張さんに逢ひました時、張さんに「先達っての中風単騎の気持ちが判りましたか」と聞かれて一寸面喰ひました。
張さんの云ふには、「あんな手が入る時は他家にもよい手の来るもの。あの中風を切つて混一色和でも打ち込んだら、いい物笑ひだから」と云つて、痛快さうに笑つて居ました。 また、「それと、もしあの中風が得られる様な運勢なら、ほんとうに運に乗り切っているのだから、まぁ運だめしだね」と謙譲していました。
之は何でもなさそうなエピソードですが、私は此の心境を失った為めに、昨年の春、大阪の住吉公園で緒方、米澤、佐藤の三氏と闘った時、折角のトップを台無しにしてしまった事があります。
この時、緒方氏は筒子一色、佐藤氏は索子一色、私は萬子一色で、私はトップめでした。しかし自分の手に夢中となり、結局佐藤氏に索子一色を打ち込んでしまったのです。佐藤氏はそれまで負けて居たので、結局緒方氏に名をなさしめてしまいました。
張さんは今でも日清汽船会社のどこかに働いて居ると思ひますが、やはり江南随一の達人と思ひます。 |