中国古典麻雀では海底牌ツモ者はアガらなくても打牌しないのが普通のルールであった。しかし寧波麻雀の一部では打牌するルールが採用されていた。その牌で栄和すると「人和(レンホー)」という一翻相当の役になった[精通]。
日本に麻雀が伝来した大正時代、主流として伝わったのはこの寧波麻雀であった。しかしこの人和は最初、伝来しなかった。そのため昭和初期結成された麻雀団体、日本麻雀連盟の会員中から、「海底自摸和が一翻なら、放銃の方も一翻とすべきだ」との声があがった。これを受けた日雀連では、昭5ルールで「海底牌を摸したるものの打牌による和了」を「河底撈魚(ホーテーローユイ)」として採用した(この役の命名者は同連盟の木村衛氏であった)。
ツモアガリである海底撈月は、音が「ハイテーローユエ」で「海底の月を撈(と)った」という意味。そこでロンアガリの方はホーテーローユイとして語呂を合わせ、意味も「河底の魚を撈(と)った」として合わせたものである。※壁牌で囲まれた内側部分を河(ホー)という。また「底」には“最後”という意味もある。
そうこうするうちに、やがて海底牌ツモ者の打牌によるアガリは中国麻雀では人和という名称のアガリ方であることが判明した。しかしその時点で日本麻雀では、子の第1自摸和に「人和」という名称をつけ採用したあとであった。「いまさら名前は変更できない」というので、名称の変更はされなかった。しかしなんとなく気が引けたのか、子の第1自摸和の人和の方は、親の第1打牌による栄和(ロンホー)である地和に吸収してみたり、地和を子の第1自摸和に限定したルールも作ったりした。そして河底撈魚の方も、いつの間にかルールから削除してしまった。これが現在の一般麻雀で人和の解釈が曖昧になっていたり、河底撈魚を採用していたり、いなかったりの混乱がある原因である。
とはいえ河底撈魚という役自体はそれなりに普及した。ただ「ホーテーローユイ」というのは発音しにくいため一般麻雀では牌底放銃(ハイテーほうじゅう)と呼称されることも多い。また日本麻雀を紹介した香港の麻雀書「麻将贏銭技巧(編・金必多(金が必ず多くなる(^-^)」では、川底撈魚という名称で紹介されている。広義には川も河も同義であるが、単に「河」といった場合、中国では黄河を指す。黄色は皇帝を象徴する色であり、黄河は黄龍を表す。ひょっとすると、そんな畏れ多い名称を麻雀役の名前に使用することを中国の翻訳者は嫌ったのか?。また現代中共では、この牌底放銃が「海底撈月」という名称で採用されている。このため本来の海底自摸和は、「妙手回春」という名称となっている。なんだかもうワケワカメ状態.....
いずれにせよ牌底放銃は、海底牌を摸したるものの打牌によるアガリというのが本来である。しかし近年のリーチ麻雀では、海底一つ前の牌を槓したプレーヤーの打牌も河底牌とし、この打牌によるアガリも牌底放銃としている。もちろんこの打牌に栄和が無ければ、自然流局としてノー聴罰の精算が行われる。これもルールの変化ということであろう。
ところで、この日本製の河底撈魚という名称には面白い後日談がある。
木村衛氏は、命名の1年ほど後に、「海女が海底から宝珠をとってきた」という謡曲「海女」の“面向不背の珠”の物語を知った。そこで木村氏は、「『魚を撈った』ではどうも生臭い。謡曲「海女」“面向不背の珠”にちなんだ「海底撈珠(ハイテーローチュー)』という名称へ変更しよう」と提案した。しかしもうすでに河底撈魚という名称が定着してしまっていて、どうしようもなかった。そこで大いに残念がったという。この木村氏が大いに心を動かされたという謡曲「海女」は次のような物語である。
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天武天皇の御代、藤原鎌足公の息女に思いっきりの美人がいた。この噂が唐の皇帝の耳に入り、ついに使者が日本へ遣わされた。鎌足公はこの請を受け入れ、娘を唐に遣わした。皇帝はこの美人を后姫とし、夫婦仲も良かった。
享保三年、鎌足公が逝去され、その報が唐にも伝えられた。媛(ひめ)の悲嘆は尽きることがなかった。皇帝はこれを慰めんと心を砕き、唐室の重宝、「泗濱石」「花原馨」「面向不背の珠」の三宝を日本へ遣わし、鎌足公の冥福を祈る事とした。
唐の使節は三宝を奉じ、媛の兄君・藤原不比等(ふひと)公に献ずるため、海路、日本へ旅だった。しかるに讃岐の房崎の浦に至ったとき暴風吹き荒れ、海中より龍神が現れ、「面向不背の珠」を奪い去った。
やがて波風収まり、船は浪速の浦に漕ぎ着けられた。使者は直ちに都に上り、淡海公・不比等公に謁し、媛の悲嘆、皇帝からの鎌足公追福の意、房崎の浦の不思議な出来事を伝えるとともに、二つの宝を献上して帰国した。
淡海公は妹の志が達しえなかったことを悲しみ、いつしか「面向不背の珠」を取り戻して媛の意を達しようと決意された。そして天武天皇の七年、淡海公は珠を求めて房崎の浦に下った。そこで地元の美しい海女と結婚し、珠を取り返す機会を待った。3年後、玉のような男子をもうけた。この子は「房崎(ふさざき)」と名付けられた。
子までなした仲となったので、淡海公は「我は藤原不比等である。先年、この浦で龍神に奪われた面向不背の珠を取り返しにきた」とうち明け、「もし海中より面向不背の珠を取り戻してくれるなら、房崎は次男なれど藤原家を嗣(つ)がすであろう」と語られた。母性愛に燃えた海女は最愛の子の栄達のために、恋と命を捨てて海中に入った。
「 かくて竜宮に至りて宮中を見れば、その高さ三十丈の玉塔に彼(か)の玉を籠(こ)めて香華(こうげ)を備へ、守護神は八龍並び居たり。そのほか悪魚、鰐(わに)の口。遁(のが)れ難(がた)しや我が命、さすが恩愛(おんない)の古都の方(かた)ぞ恋しき。あの波のあなたにぞ有つらん。父大臣も在(あ)るすらん。さるにても此儘(このまま)に別れ果(は)てなん悲しさよ。涙じみて立ちいしか。
また思い切って手を合わせ、南無や志度寺の観音菩薩の力をかせてたい給へとて、大悲の利剣を額(ひたい)にあて、竜宮の中に飛び入れば、左右にぱっとぞ退(しりぞ)ひたりける。其の隙に宝珠盗みて遁(に)げんとすれば、守護神追っかく。かねて工(たく)みしことなれば、持ちたる剣を取り直し、乳の下を掻(か)き切りて、珠を押し込め剣を捨ててぞ逃れたりける。竜宮の習ひに死人を忌(い)めば、あたりに近づく悪龍なし。約束の縄を動かせば、人々よろこび引き上げたり
」
海女の一子、房崎は藤原を襲(つ)いで大臣となり、行基菩薩を伴って補陀落山志度寺(四国八十八所八十六番札所)の堂宇を修し、母の霊を慰めたという。また同寺には海女供養の千塔もあるという。現在、興福寺金堂に安置されている釈迦如来の眉間にあるのが、この面向不背の珠という。
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木村氏の意を汲んで、これからは海底撈珠と呼ぶのがいいかもしんない・・・・・
別名・海底衝 ・了胡 ・了和 ・川底撈魚
和名・海底撈珠・河底栄・牌底栄 ・海底打ち・ラスロン
英名・Fish from the bottom of the river(河底からきた魚)
・Under the river(河底ロン)
・Going out with last discarded tile(ラスロン)
・Fish from the Bottom ofF the River(河底で得た魚)
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