Classic story 古今小説 .

    (16)雀戯 7


(二十二)

 凱旋して帰った翌々日、北王は杜安仁の密告によって娘の恋愛事件一切を知った。何処までも図々しく、さもしく出来てゐるか分からない杜は、北王歴戦の留守に、それとなく聖姫をつけねらっていたが、そのうち劉との間を嗅ぎつけ、一部始終を探知してしまった。とてもわが戀が叶わぬと観念した杜は、これを北王に密告し、一には王の機嫌を取り、一には麻雀の敗戦と戀愛の恨みを晴らそうとした。

 烈火のやうに怒るだらうと予期した北王が、いつになく只ぢっとおとなしく聴いて、最後に「さうか」と一言云ったなり素直に杜を帰したので、杜にはあてが外れてがっかりした。何だか不安さへ覚へて、いひだしたことが心配された。

 その日、北王は自室に引っ籠って誰にも逢はなかった。翌日の夜、北王は聖姫を自室に呼び、自分で機嫌良く茶菓などをすヽめ、二三の雑談をした後、

 「実はお前に少し尋ねたいことがる。これは何もお前を責めるわけではない。親一人子一人の間柄で、わしももう寄る年波ぢゃ。お前の好きですることに、わしは文句は言はない。たヾ何事も隠さないでいってくれ。いヽかい」
 といつになく柔和な顔で話しかけた。聖姫の胸はわなわなと慄へ出した。父の年が急に十ばかり殖へたやうに見えた。

 「その話しと云ふのは、東軍の劉浩との一件ぢゃ」
 といって娘の様子をぢろりと見た。聖姫は侮と恥ずかしさ、恐ろしさで下唇を噛みしめて、さしうつむいたまま石のやうに堅くなった。

 「これだけ云へば、お前には合点がいくぢゃらう。わしもそのさきは言ひたくない、が一度はお前の口から事実かどうかを聞かないと、その先の話ができん。決して心配はいらんから、はっきり、どうならどうといってはくれまいか。ね、聖姫、心あたりがあるぢゃらう」

 聖姫は大粒の涙をはらはらとこぼし、手巾で顔を掩うてしまった。
 「これこれ、泣くには及ばん。叱るんぢゃないから泣かんでもよい。出来たことを咎めるんぢゃないんだ。わしは只その道筋を知りたいんだ」
 聖姫は涙聲でおろおろと
 「お父様、どうぞお許し下さい」といって机の上に泣き伏してしまった。

 「うむ、さうか。それならそれでよい。泣いてちゃ話が出来ん。顔を上げなさい。そして何かい。園に行って劉と逢った時の舟遊會といふのは、東王の催しだったといふが本統かい」
 聖姫は微かにうなづいた。

 「さうすると、始めからの手引き、いや世話役は東王といふわけぢゃな」
 「お父様、どうぞ怒らないでください。東王様は本統に親切な方です」
 「うむ、よく分かった。出来たことは仕方がない。麻雀の敵としては、劉は憎い奴ではあるが、残念ながらあいつは男の惚れる男ぢゃ。お前の婿としてもいひ分のない奴ぢゃ。お前が見込んだのはえらいと思ってゐる。ところで将来の問題ぢゃが、無論結婚して一生添い遂げる気ぢゃらうね」

 涙の顔に微笑がうかんだ。そしてこんどは大きくうなづいた。
 「はヽヽヽヽ、現金な奴ぢゃ。が、まぁよい。さうと決まればわしにも考へがあるが、あした何とかして劉を呼んで貰へまいか。お前達二人の前で、わしが頼みがある。なるべく夜の方がよい」

 聖姫は今からでも呼びにやりたかった。心配した不安が、ぐいと根こそぎ取り除かれて身も心も急に軽くなったが、父の頼みといふのがまた気にかかった。

(二十三)

 翌日の夜、約束通り、龍と聖姫とは、北王の前に現れた。どんな制裁でも甘んじて受けやうと覚悟した劉の態度は堂々として少しも臆するところがなかった。北王は自分の娘の一生が、祝福せられてゐることが嬉しかった。北王の態度、柔和な内にも刺すやうな強い覚悟が眉目の間に流れてゐた。二人は一種の威厳にうたれて思はず頭が下がった。

 「劉さん、一部始終の話は娘から聞いた。わしも昔ならそんな不仕鱈を許しておくわしぢゃないが、考へてみると、この子は早く母に死に分かれ、兄弟もなく誠に不憫な奴ぢゃ。すべては境遇が今度の事件を生んだのぢゃ。わしには娘の心を愛する涙がある」

 語る人も聞く者もしんみりとなった。劉には感激の涙さへ光った。
 「それに相手があんたぢゃ。かういっちゃ失礼かも知らんが、わしはあんたの男に惚れている。あんたなら安心して娘もやれる。相手がわしの気に入らない奴なら、娘がどんなにじたばたしたって許すぢゃないが、あんたならこっちが望んで貰ってもらひたい位ぢゃ。安心なさるがいい。わしは二人の過去を咎めようとはいはん」

 二人は一言半句も聞き漏らすまいと、熱心に聞き入っていたが、ここで安心の溜息をついた。
 「無論あんたは娘の生活の面倒をみてくれるぢゃらうのう」
 「はい、王様、どうぞ私を信じてください」
 「信じる。十分に信じる」
 「では」
 「改めていふまでもなく、娘はあんたにあげる、いや、貰ってやって下さい」

 感激の涙が龍の頬を伝わってこぼれた。聖姫はそっとハンカチで目をふいた。
 「そこでわしに一つの頼みがある。きいてはくれまいか」
 「はい、どうぞお申し付け下さいまし」
 「外でもない、わしは東王に恨みがある。その恨みといふのは、他人の娘を誘拐して男にくっつけたといふ許すべからざる大罪ぢゃ」

 二人は蒼くなった。
 「結果は円満に行ったとしても、それとは無関係で、わしは東王の心根が憎い。東王は決してお前達二人の幸福を願ってさう計らったのではなく、多年仲の悪いわしへの面当てに娘を傷物にしてやれといふ位の不真面目な考へから、娘を引きずり出したことは、わしはちゃんと知っいる。其の心根がにくいのぢゃ。わしは侮辱された復讐をせねばならない。東王の誘拐が今日の二人の幸福を作ったと考へて、東王に好意を持ってくれては困る。他人の娘をそんな目に遭わせて、それを陰から笑ってゐる東王の心はお前達にも分かる筈ぢゃ。わしは是が非でも東王に報復せねばならない」

 「王様の御心事はよく分かります。が私は東王には個人的に色々とお世話になってゐますので」
 「それも知ってゐる。あんたにしても東王に盾つくことは出来にくいぢゃらう。しかしあんたはこれと一緒になれたといふことヽ、東王の心理の出入りとを全然切り離して考へることはできないか。東王は中の悪いわしに面当てのためお前達二人をくっつけたのぢゃ。二人が仲良くなったのは、即ち東王の目的が達せられたのぢゃ。そこに不純な感じは起きないか。一種の義憤は感じないか」

(二十四)

 ぢっと考へ込んでゐた劉は静かに顔を上げた。「私は東王をそれほど陰険な方だとは思っていません。他人の娘をかどわかしてかげでこっそり笑ふやうな、そんな卑劣な根性は絶対にないと信じてゐます」

 「お前がさう信じてゐるのは当たり前も知れない。しかしそれはお前の誤解ぢゃ。東王といふ人は、一件磊落寛容で清濁併せのむ底の大人物に見えるが、あれでなかなか神経過敏で権謀術数に富み、奸智奸策に長けている。お前はあの人の不得要領な性分と大きく見える愛に包まれて、その人物をはっきり見抜くことが出来ないのだ」

 「私が十分首肯できる証拠がない限り、私は東王をそんな方だと信ずることは出来ません」
 「証拠、証拠は幾つもある。第一、今度の聖姫の事件がさうぢゃ」
 「しかし、これは・・・・」
 「だからお前は東王を見る明がないといふんぢゃ。もし東王にそんな下心がないなら、何の必要があって他人の娘をお前にくっつけるのか。莫愁湖の舟遊びといひ、みな東王の周旋といふぢゃないか」

「それほど東王は私たちに親切な方だと思ってゐます」
「それが誤解といふんぢゃ。戀愛に目がくらんで、ものごとを正しく見ることが出来ないのだ。あれは決して二人のことを思ってしたことぢゃない。まったく裏に心あっての企みぢゃ。ほんたうに二人の相愛のために、婚儀の斡旋をしゃうと思ふなら、なぜ堂々と私に申し込まんのか。わしの留守に乗じ、娘をおびき出して男と逢い曳きさせるといふのは、東王として不徳極まる仕儀ぢゃ。コレでもお前は東王を卑劣な不徳漢と思はんのか」

 「東王にも幾分の過ちはありせう。しかし今度のことは決して北王様に対してどうかういふ深い策略があってなさったこととは思へません。ただ単に二人の心持ちをお察し下さって、全く善意に行動なさったものと信じてゐます」

 「うむ、わしはお前に敬服する。東王はお前のやうな腹心を得て、定めし本望ぢゃらう。お前は全くえらい人ぢゃ。が、しかし、東王に対するお前の考へは、やはり誤解ぢゃ」

 「誤解だと仰れば誤解だと致して置いてもよろしうございます。私は東王を信じ、東王もまた私を信じてゐられます。自分を信じてくれる者の前には、人は全て善人になります。東王にも欠点はありませう。しかしそれは私には問題ではありません」

 「さうか、それほどまでに信じ切ってゐるなら、これ以上わしがその人物を説いても無駄だからやめる。只一つお前に考へて貰ひたいことがある。それはわしの身になり、わしの立場から今度の事件に対する東王の行為を熟慮してくれ。果たして許されるべきことかどうか。お前達が幸福にされたと思ってテンから東王に好意を持ってかかってくれては、わしの心は分からん。わしの頼みだ。わし対東王になってくれ。お前対東王ではわしの頼みの通らう筈はない。いヽか」
「・・・・・・」

 「お前達は東王の親切で幸福の第一歩へ踏み込むことができたか知らんが、わしにはその幸福を取り消し得る権利がある。わしの頼みがお前達にだうしてもきかれないとすれば、わし自身の力の許す範囲で東王に報復をする。その第一は東王の作ったお前達の幸福を破ることぢゃ」

 劉の顔には、明らかに狼狽の色が見えた。聖姫は顔を上げて祈るやうに、憎むやうに北王を見つめたが、すぐにまた深く頭を垂れた。

 「信ずる者の前には、善人となるとともに、憎む者の前には人は悪鬼ともなる。わしは東王の屈辱に報いねばならぬが、報復するか幸福を捨てるか、お前達はどの道を進むか、熟考の上で決断してくれ。付け加へておくが、わしはお前達の秘密を杜安仁から聞いて知った。そしてわしはその翌日、杜を斬り捨てたぞ」
 白けきった一座は、それから暫くは言葉なく、蟠った心と心のかち合ひが息苦しさの間からきこえるやうであった。

(二十五)

 それから二三日過ぎた或る夜。營舎の燈も大方消えて、僅かに残った一つ二つが寒さに瞬いてゐた。ツと、いたちのやうに、その明暗のなかを横切った人の影があった。暫くして、その影は東王の寝所に夢のやうに現れた。
 さめてゐるものは、燈ばかりである。その燈さへ眠りがちな真夜中である。黒影は足音もなく夢のやうに衝立に近づいた。衝立の影には濃緑の綸子のカーテンをめぐらした大きな寝台がある。すうすうと安らかな寝息が聞こえる。

 暫く様子を窺っていた黒影は、突如、身をかはして衝立から躍り込もうとしたした拍子に、ふらつく足を衝立にドッと躓いてしまった。酒の勢いでぐっすり寝込んでゐた東王は、その音にかっと目を見開いた。

 「誰だ」
 黒影は思はず
 「私です」
 と言ってしまった。
 「何だ、劉か」
 「はい」
 「今夜は当直番か。風邪いかんやうに気をつけよ。だいぶ寒くなってきたから」

 さう言ったまま寝返りして寝てしまった。懐中に短剣をを握ってゐた劉の手はひょいと力が抜けてしまって、涙がほろほろこぼれた。北王には憎いかも知れないが、自分にはだうしてもやさしい東王である。

 奸智もあらう、策も多からう、生活は放縦で酒色には耽る、人物に欠点は沢山あるが、自分には兎も角も親切な王様である。殺しに来た自分に懐を見せて寝るほど自分を信じ切っている。かぜ一つひかせまいと、宿直を労るやさしい心は慈父にもまさる。その人にだうして刃があてられよう、だうして背かれやう、あヽ、自分は人の子であらうか。

 滔々としてにじみ出る涙の玉の底に、聖姫の笑顔がぽっかりうつった。訴へるやうにして見つめる愁ひを含んだ眼、すっと切った一寸の紅唇、白い膚、手、足、髪、愛撫してもしたりない可愛さー。

 世界において自分が有する唯一のもの、心も身も自分にさヽげてもたれ掛かるこの愛の塊を捨てヽ自分は何の生き甲斐があらう。あの嫋々たる軆をもし人に任せるやうなどがあっては、それは考へただけでも堪へられない。この愛の前には、すべての物が無価値である。

 といって、自分はあれほど自分を信愛する東王に背くことが出来るであらうか。劉は烈しい幻惑を感じて底に倒れさうになった。

         *         *          *

 降りさうで降らない、いやにじめじめした暗い寒い日が四五日続いた。
 突如、世界が二つに裂けたやうな驚くべき急変の知らせが、その寒空をはやての如く走った。
 東王暗殺!
 それのみでない。
 劉浩と聖姫の自殺!


 物音に驚いて侍従の誰彼が東王の元に駆けつけた時は、東王は血に染まって打ち倒れ、劉浩・聖姫の二人は東王の上に折り重なるやうにして倒れてゐた。

 東王の傷は心臓部の一突きで、二人は毒を仰いでいた。晴れて添へるといふ話のまとまりを祝ふ心で、当夜、東王は二人を招いてゐた。いや、二人から東王に祝って貰ってゐた。

 笑談まじりの晩餐會が済んでから、一時間と経たぬうちにこの變事は起った。遺書はなかった。何のための殺害であらうか。ウワサはいろいろに傳へられたが、真相をつかんだ者は一人もいなかった。

 盛昌を極めた太平天國の命運も、これから凋落に向ふ一転機のやうに考へられ、城民の心は古い沼のやうに重苦しく沈んでいった。やがて北王は政権を握った。しかし憂鬱な彼に正鵠機敏な政治は出来なかった。天國の内乱はここに端を發して自滅の途に向ふのである。

 この数日来、急に寒さが厳しく、北極閣の上空あたりには、うす黒い雲が慌ただしく流れてゐた。

        −完−

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