Classic story 古今小説 .

    
(15)雀戯 6


(十八)

 主従二人が乗り込んだ会が画舫には、劉のほかは誰もこなかった。紫檀の卓子のうえには様々な料理や果物などが並べられ、室の隅の方には白毛布を敷いた安楽椅子が周囲を囲み、灯火の光が白く真ん中へ流れ落ちる。聖姫を中央に、やや離れて侍女二人が腰掛けているが、それが弱い光に浮き出されて繪のやうに美しい。

 ゆらりと大きく揺れて船は岸を離れた。十数隻の画舫が前後して行く。廂に吊された灯火が螢のやうに美しく水に流れる。水はひたひたと舷にあたる。進むにつれて湖は次第に広くなり、堰堤も樹木も闇の一色でくらい。悩ましい花やかな笑ひ聲が、どの船からも聞こえる。餘興船で弾く胡弓の甲高い響きが天を直接的に貫き、少女のうたふ聲が、その後を追ふ。莫愁湖には、時ならぬ龍宮が出現した。

 劉は、自分で卓上で按配しながら、
 「さア、どうぞ。何もありませんが召し上がって下さい」
 再三勧められて、侍女達も一緒に席にすすんだ。
 「船の中では何にも出来ませんが、まア、この景色をご馳走だと思し召して」
 「ほんとうにきれいですわね」

 聖姫は頬を真っ赤にしてカーテンのかげから燈を吊して列んでゆく船を眺めた。
 「この湖は春が綺麗です。それも船に乗っては景色が見られません。あの勝棋樓あたりから眺めますと、中の島のこんもり霞んだ柳や、墨繪のやうな連山などが一目で見渡されます。まず南京の絶景でせうね」
 「細工のないことが却っていいやうですわね」
 「さうですとも。このぼんやりした野趣が莫愁湖の生命です。秦匯みたいに人工を加へちゃ一文の価値も無しです」

 「勝棋樓も古びて、この湖には相応しいやうね」
 「あの構造が、一風変わって風流ですよ。明の太祖が好きそうな古雅な樓です。太祖といへば、中王徐達と、あそこでよく将棋をさしたそうですが、やはり太祖の方が少し弱かったらしいです。形勢が悪くなると、太祖はあの長い顔をかう前にツンと突き出し、敵の隙を狙って電光のやうに駒を打ち込み、どうしても待ったを許さなかったさうですよ。何しろ、負けん気ですからね」

 顔を突き出した恰好のをかしさに、三人の女は下を向いて笑ひ崩れた。船中はすっかり柔らかひ気分になった。
 「太祖のお顔は、お馬みたひだわね」
 目を丸くして怖さうな顔をする白蘭の茶目振りに、皆は又笑ひ崩れた。
 「あなたはそんなことを仰るとバチがあたってよ。南京の都を開いた王将じゃないの」
 「さうを」
 と、平顔でとぼけてゐる。皆の笑顔が衣のやうにほころびた。聖姫は、ここの空気を柔らかにしてくれた顔の長い太祖と滑稽者の白蘭とに、ひそかに感謝した。

(十九)

 「ね、お嬢様、どうして莫愁湖なんて変な名をつけたんでせう」
 紅玉が尋ねるのを引き取って劉は、
 「それはね、莫愁といふ美人が此の付近に住んでいたから、さう云ふんださうです。もとは洛陽の人です。ほら、梁の武帝の詩に、『洛中の水、東に向かって流る。洛陽の女児、名は莫愁』とありますね。あれです」
 「あら、さう」
 また白蘭が引き取った。
 「何が『あらさう』なの」
 紅玉が逆襲する。
 「だってねぇ、お嬢様。さうですわ」
 聖姫は顔を卓に伏せ、をかしさと嬉しさでそっと涙を拭いた。

 「しかし、いい名ですね。美人莫愁!、美人愁ひ莫し、美人に生まれると幸福ですね。白蘭さんなんかも、そのお一人でせう」
 「あら、私は心配はしていないけど美人じゃないわ」
 「あなたは美人よ、南京第一!」
 「いやな紅玉さん・・・」
 真っ赤になってツンと黙り込んだ恰好に、劉もぷっと吹き出してしまった。
 「あら、お月様がー」
 白蘭の指さす方を見れば、團々たる真っ赤な月が水平線を数尺離れて上がり、砕金の波が縮緬模様に動いている。
 「まア、きれい!」


 三つの白い顔が重なり合って窓から覗く。広い湖心を灯の美しい画舫がばらまいたやうに遊弋してゐる。闇から浮き出した中の島も沿道も、遠くの山々も、夢の中のやうに淡ひ。寄り添った體温の、悩ましい触覚に二人の息はせはしく、顔は火照り、心臓の動悸は高まった。目に見えぬ大きな圧迫を感じながら、それが少しも苦しくない。いつまでもかうしてゐたい。聖姫は目が熱くなるのを感じた。二人の侍女の話聲も耳に入らない。

 探るやうに求めてきた男の手、力強い握手!・・・・。
 聖姫は無意識にそっと握り返すと、顔が火のやうに赤くなるのを感じた。何か大変恐いことをしたもののやうに急に手を引いた途端、白蘭が、
 「あらッ」と頓狂な聲をだした。中の島で提燈を三つ四つ、ぐるぐる廻してあるのが目に付いたのである。
 「餘興が始まるんです。行ってみませう」

 劉は聖姫に何か私語くと、ツと離れて船頭に中之島に行くように命じた。提燈を見つけて画舫が中の島めがけて集まって行くのが見える。やがて船々の美しい客は中の島に上陸して、沿道の舞台の前に集まった。
「さきへいらっしゃい」
 劉は侍女を先にあげ、人ごみに紛れて消えて行くのを見届け、急ぎ船に引っ返した。そこには聖姫が前の方を向いて、何だか不安さうに待っていた。

(二十)

 後ろから寄り添ふた劉は、両手を軽く聖姫の肩にあてて顔を覗いた。聖姫は真っ赤になってうつむいたまま、硬くなって動かない。
 「聖姫さま」
 動作が烈しくなってなんだか息苦しい。
 「聖姫さま」

 真っ白の顔に劉の頬が触った。軟らかいやきごてのやうな熱さに恐ろしいやうな嬉しさが全身に震動する。目がくらんで、自分の身が湯気のやうに立ち切ってしまひさうであった。強ひ男性の烙印が軟らかな處女の心に鏝の如く頼もしく焼きつひて、真純な感情がしきりに動揺した。

 劉は彼女の肩を抱へて、安楽椅子に腰掛けさせ、自分も膝を並べて掛けた。
 陸の方からは華やかな笑ひ聲が聞こへてくる。
 「とうから、かうして二人で話したいと思ってゐました。こんばんは本統によくおいでくださいましたね」
 「私も、もしやお逢ひできやしないかと思って」
 「あなたがお出で下さらなきゃ、この催しも無意味になるところでした」
 「どうして?」

 「実はね、今夜のこの舟遊会は、あなたと私を逢はせるために、東王様がわざわざ計画して下さったんですよ。二人だけで船遊びするのも変ですし、といって、世間的には懇親の舟遊会と見せかけ、その目的は、どさくさに紛れて二人を逢はせたいといふ寸法なのです。あの餘興をごらんなさい。皆私たちの犠牲です。貴い犠牲です」

 「まア、さうまでして下さったのですか。でも東王様は、どうしてそう何もかもご存じでせう」
 「東王様の才知は神のやうです。先日の可隆節のとき、あなたの様子を一ト目みて、それと悟ったさうです」
 「まア、いや!」

 聖姫は耳まで真っ赤になった。「東王様は、私を子供のやうに愛して下さいます。あなたもどうぞ東王の好意に感謝して下さいね」
 「ええ」
 「そしてそれとともに私を忘れないで・・・・この四,五日の寂しさは・・・どうして急にかう急に恋しくなったんでせう」
 私も・・・、と云ひかけて彼女は赤い顔を伏せた。

 「でも何だか心配ですわ」
 「・・・・仲が悪いんでせう?」
 「東王は、さう大して気にもしてゐないやうです。来た王様だって、同じ天王の同族ですもの。それよりも気がかりなのは、あなたの心」
 「ひどい方、私、もう知らない」
 彼女は顔に両手をあててうつむいてしまった。

 「怒った?、さア、その手をお放しなさい」
 綿のやうに柔らかな白い指を、そっと握って顔からのけやうとしたが、赤い顔を見られるのが恥ずかしさに、いやいやと躰をゆすって劉の上に突っ伏してしまった。それでも劉が首を抱いて、一捉のあまる愛撫の接吻を送れば、黙って手に力がなかった。南のほうでは拍手がしきりである。

(二十一)
 聖姫の生活は明るく輝きだした。喜びがあまりに大きすぎて、自分の胸いっぱいでは抱へきれない気がした。この幸福を長く続けるために、なるべく長い父の外征を希望さへした。

 この幸福を破壊するなら、父はもう帰ってきてくれなくてもいいとも思った。歓喜に満ちあふれた現在で、ただ一つの不安は父の帰京であった。東王と侍女二人の計らひで、二人は舟遊会以来、鶏鳴寺で一度、東王廟で一度会った。閑静な寺院の奥の物陰、風雅な庭園の茶室の浅酌、彼らの身は火のやうに熱した。

 人目を忍んで初恋の甘さに陶酔してゐるうちに、冬が来た。清涼山の森林が、ばさばさと木枯らしに寒くなる十月の半ば、北王凱旋の報が司令部から発せられた。待ってゐた不安が、まともに進んでくる気がして、聖姫は起きても寝ても案じてゐられなかった。

 そして早速使ひをやって、その夜東王邸で劉と逢った。何度も新しく話して、それがちっとも飽きなかった。二人は北王が帰って、どんなことを言ひだしても、決して約束を破るまい、放れまいと何度も何度もいひ交はし、泣いて別れた。

 長江の官兵を掃討した北王は、三ケ月振りで一ト先ず凱旋した。その日は、冬には珍しい暖かい日和で、凱旋軍を迎へる郡民の群衆は、城内外の沿路にあふれ、征戦百日の苦戦を物語る将卒の真っ黒い顔に熱狂した群衆は、萬歳を洛せかけた。歩調正しい隊伍は、ざくざくと武威を聳やかし、儀鳳門をくぐった。

 東王も門まで出迎へ、北王とやや興奮した握手を交わした。城内はアーチをつくり、旗を揚げ爆竹を鳴らし、お祭りのやうな騒ぎである。北王は前よりも元気さうに、さして一層いかめしく見えた。

 凱旋した北軍は營庭に竝んで、東王や北王から慰労の挨拶や訓辞を受けた。各軍の代表者も駆けつけて一々慰労して帰った。生き生きした北軍の混雑を中心として、南京一帯に春が甦ったやうであった。北王は久しぶり、愛嬢に迎へられて、自邸に入った。聖姫は何も知らぬ父を見ると、涙ぐまれた。

 「達者じゃったか。何だか以前よりだいぶきれいになったようぢやの」
 「いやなお父様」
 「はははは、大きくはなったが、まだ相變わらずねんねぢやのう」

 父に背いてゐる自分の心が悲しくなったが、強いて気を落ち着け、
 「お父様も大變お元気のやうでいらっしゃいますわ」
 「おゝ、元気ぢゃ、官の兵をうんとやっつけたんで勇気百倍ぢゃ。今度ぐらゐ面白い戦をしたことはない。まあ、あとでゆっくり話さう。これで南京も当分安泰ぢゃ。天下太平ぢゃぞ。はははは、大いに愉快ぢゃ」
 天下太平といって哄笑する父が しんから気の毒だった。

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