Classic story 古今小説 .

    
(13)雀戯 4


(十一)

 競技会が済んで3日目の朝、幽閉同然の杜は、呼ばれて北王の前に出た。血の気の失せた顔は、紙のやうに生白く、目は落ち窪み、頭髪は乱れ、腰は前に屈み、手足はぶるぶる震えて生きた人の生気もない。

 杜、腹の中でもうこれがいよいよ最後だ。この世の見納めだ。あぁ何とかして助かる工夫はないかと泣いて、王の前にべったり平伏した。苦り切った王の眼光が、けふは鋭利な刃物のやうに心臓に冷たく感ずる。

 「たはけ奴ッ」
 鞭の如き峻烈さを含んだ嗄れ声が、痰のやうに杜の丸い背の上に吐きかけられた。少し上げかけた頭が、「はッ」とまた床についた。

 「命が惜しいかッ」
 「はい。どうぞ、お願ひでございます。命だけはお助けくださいませ。王様へこの通りお願ひでございます」
 「卑怯者ッ」
 「はい」
 「人非人ッ」
 「はい」
 「命が惜しくば、なぜ負けた」
 「決して負ける腕前ではないのでございますが」
 「黙れッ、口先ばかり達者な奴だ。貴様は本当に命が惜しいか、助かりたいか」

 「どうぞどうぞ、もうそれ計りがお願ひでございます。その代わりどんな苦役でも厭ひは致しませんので、はい」
 「片輪にされても生きていたいか」
 「生きてさへ居ることができますれば、指一本位は、はい、どうでも宜しうございます」
 「見下げ果てた奴ぢゃ」
 「どうぞ、お願ひでございます」
 「敵ながら劉浩はえらい奴ぢゃ」
 「はい」

 「お前の命をとったって馬鹿馬鹿しいんぢゃらう」
 「はい」
 「お前を許してやるといふ使者が昨夜劉浩から來たんぢゃ」
 「えッ、そりゃ本統でございますか」
 「指一本も傷つけないでお前は生きて居られるんぢゃ。どうだ嬉しいか」
 杜は、頭を床にすりつけたまゝぼろぼろ涙をこぼした。
 「助けられて嬉しいぢゃらうのう」

 「はい、もう」身をもじもじと縮めて、鼻の頭を何度も床にこすりつけた。
 「さがれッ、俺はもうお前の顔をみるのもいやぢゃ」
 「何とも申し訳ございません」
 「お前が自殺でもすれば、負けても、この俺の意地は立つ。お前がおめおめと生きながらへ、その上救命せられたばかりで、俺の顔は全く失った。負けた上、この侮辱だ。俺の胸は焼けるやうだ。救命せられたことを侮辱とも思はんかッ」
 「はいッ、いいえ」
 「たはけ奴ッ」
 杜は逃げるやうに、王の前をさがった。

(十二)

 麻雀の競技會は、それきり立ち消えとなって、今までの騒ぎは嵐の後のやうに静かになった。其の静寂の中に思ひがけなく残った心のうずき・・・、それは北王の怨恨と聖姫の戀慕とである。一つのものに對して父は怨み、娘は慕ふ。くやしさに身ぶるひする傍らで、恋しさに泣くものがゐる。麻雀競技といふ催しが、北王父娘の感情を偶然正反対に突っ走らせてしまった。

 そんな事件には全く無関係で、安慶あたりでは官兵隊と黨軍の激戦が続けられてゐた。曾國藩が率いる新進氣鋭の軍兵は、入り代はり立ち代はり執拗に責め立てるので、さすがに強い黨軍も少しづつ支え切れなくなり、だんだん下流へ退却し始めた。

 形勢不利の通知が天王のもとへ続々と来る。良江の航行権が官兵に奪はれては、南京の獨立は危ない。捨ててはおけないと東王は天王に勧め、北王を総指揮官として、一萬の援兵を送ることゝした。

 出動命令を受けた北王は、これは命懸けの麻雀競技の挑戦に對する東王の報復だと思った。東王としては、報復なぞといふはっきりした意識はない。が、もっと軽ひ気持ちで北王の奴をやらしてみるかといふ位の、憎しみともつかず、冗談ともつかない軽い反感的な気持ちで下命したのであった。

 北王はくやしさにぼろぼろ涙をこぼした。いっそのこと、単身東王邸に乗り込んで一思ひに刺し殺してしまひたいとまで思ひ詰めたが、麻雀で破れた直後であるからやはり氣が引ける。時期を待てというふ心のささやきに、何もかも辛抱し、やがて出陣の途についた。

 その日は東王も儀凰門まで見送った。自分を死地に追ひやりながら、同情したやうな顔つきで送りにきた、おのが非常な侮辱やら皮肉やらに感ぜられた。おのれ、今に見ろッ、一度はこの怨みを晴らしてくれるぞと、北王は腹の中で齒を食ひしばった。鷹揚な東王の笑顔を見ると、いきなり飛びつひて、ひんむしってやりたかった。

 歓送の群衆は城外にもあふれ、下関まで続ひた。敗戦の報は、出陣を見送る城民を熱狂せしめた。其の翌日は、南軍の兵五千が良江の方へ出動し、翌々日は東軍と西軍の兵五千が浦口へ渡り、南京はまた戦時気分が濃厚になって、城民は何かと忙しかった。

 各方面の軍隊は勝ったり負けたりして、決定的な勝負は付かなかったが、大体におひて黨軍に有利であった。勝報が來ると南京の色街はまた賑わった。
 安慶につひた北王は着く早々、官軍から包囲攻撃され退却した。退却中沿岸の伏兵の為に兵の半数を失ひ、自分も左手に一弾を罷り、中指の先を五分ばかり削り取られた。

 しかし敵兵の配置を知った黨軍は下流から上陸し、敵の背後に回り、前方からと挟撃したので、不意を喰らった官兵は陣容を立て直す暇もなく散々に撃たれ、屍は連なって江川に流れ、安慶は一日にして黨軍に奪回された。北王は「安慶は一日にして我が手に歸す」と報告を送った。それには東王に對するつらあての意味もあった。


(十三)

 幼い頃、母に別かれた聖姫は父の出陣中は一人でさびしかった。しかし、今度は新しく芽生えたある感覚に朝も晩も、どうかすると夢までも支配されて、さほど寂しいとも思はなかった。父がゐない方が自由なやうに、何とはなしに考へられた。

 侍女にかしづかれ、慎ましい生活を送る彼女であったが、こんどの父の留守中は、人と話をするにも実が入らなかったり、きげんが悪いときはすぐ返事をしなかったり、楼上からぼんやり外景を眺めてゐたりして様子の違ったのが、侍女達の目にもついた。誰にも愛想が良くて、ぱっちりと玲瓏に存在してゐた彼女は、このごろ急にふさいで黙り込み、暗い蔭に覆われてゐた。

 そのうち九月九日の重陽節がきた。家々には五色の綾が飾られ、正門付近には大きなアーチが建てられ、全城は祝賀気分に華やいだ。毎年の習わしで、此の夜、東王邸では祝賀會が開かれ、軍民間の主なる者は皆招待されて席に臨んだ。聖姫も北王の名代として珍しく出席した。

 型の通り、晩餐會が終はると、庭で余興の芝居が開かれた。聖姫も侍女と二人で見物した。芸題は貴姫酔酒といふもので、こんなものをしみじみ観たことのない聖姫には、それが面白かった。貴姫が酒によってやきもちを妬くあたりを見てゐると、ふしぎに自分の顔がほてってくるのが感じられた。

 芝居が終わって講談にうつった。聖姫は侍女を促し、立ち上がって茶席に行った。招じられたかけようとする時、接待係の一青年士官とひょいと顔を合はした。それはあれ以来、一日も忘れたことのない劉浩であった。

 「あら」と思はず口から出かかるのを抑へて、するともなしに目禮してしまった。そして真っ赤になった。青年士官は丁寧に敬禮し、他の接待係を指図して手落ちのないやうにもてなした。

 自分の赤い顔に気づかれてゐやしないかと、聖姫は顔を上げて侍女達とものを云ふ勇気も出ず、二口三口お茶を飲んで手持ち無沙汰にうつむいてゐると、二三の供を連れた東王がこの室に現れ、卓子の間を通ってあちこちで愛嬌をふりまゐている。劉のせひであらう、調子が一段と軽く、嬌声が頻りに起こってくる。

 しばらくして東王はここの離れた卓子を見つけだし、つかつかと聖姫のそばへやってきた。
 「どうぞ、ごゆっくりなさって下さい。本統によくゐらっしゃいましたね」
 聖姫は腰を浮かせて目禮した。
 「お父様がお留守でお寂しいでせう。だが、お父様の御奮闘で安慶も陥落しましたし、天王も大丈夫です。凱旋なさったら、一つ大々的な祝勝會でも開いてお嬢さん方にもお祝いの余興をやって頂きたいものですね。ハハ・・・・」と大きな体をゆすって哄笑した。聖姫には父以上の親しさを、瞬間的にこの人に感じた。

 「おい、劉君」
 東王は、そのとき横を通り過ぎようとした劉を呼び止めた。
 「折角ゐらしゃったんだから、奥の庭園の方へご案内申しあげ給へ。白雲亭にちゃんと用意してある筈だから」

 そして聖姫の方へ、
 「どうぞ奥の庭をご覧下さいまし。私の自慢の拵へでね。ハ・・・、どうぞごゆっくり」といって向ふ方へ大きな体を運んだ。
「さあ、どうぞ」と促されて、聖姫は、うかと腰をあげた。そして割合平気で劉の後につづいた。


(十四)

 奥庭は二三人の婦人がちらほらするだけで、至極閑静であった。聖姫たちは林を抜け、橋を渡り、大理石の間の小径を上がって白雲亭へ入った。長い径が一トっ飛びのやうに感ぜられた。どこまでも、いつまでもかうして歩いてゐたいと聖姫は思った。

 それにしても、後からつひてくる侍女達は黙ってゐるし、先に立つ劉は畏まって口もきかないのが、とりつく島もない寂しさであった。さっき茶席を出るときは割合平気で立てたが、かうしてあと先になって歩ゐていると、顔がひとりでに赤くなるのが恥ずかしかった。折角與えられた機會だと感ずれば感ずる程、聖姫は自分の方から話しかける気にはとてもなれなかった。

 劉は劉で「北王の娘を呉れる」といった東王の言葉と、けふの様子から王と聖姫の間に内々そんな話しが出来てゐやしないかと思って口をきくのも間が悪かった。小径をあがりきるところで、侍女の白蘭が石かどに躓き、四つ這ひになった。

 「わっ」
 聖姫と、もう一人の侍女の紅玉は小さい驚きの声を上げた。劉は飛んできて扶け起こした。へうきんな白蘭は、丸い顔にわざとべそをつくって手を眺めた。聖姫もくくっと笑った。

 「大変ですね。そこで洗ってきませう」劉は白蘭を連れて去ったが、すぐにこにこ笑って、あがってきた。
 「よく池の中へ落ちなかったね」
 紅玉がさういって冷やかすと、
 「転んでもそんなへまはしないワ」
 正真で初心らしく、さういふあどけなさに皆は又ふきだした。
 「でも私でよかったワ。これがもしお姫様だったら・・・」
 「まぁ」

 今までの四角ばったお互ひの遠慮がこの偶然のことからすっかり取れて、皆は気安く口がきかれるやうになった。聖姫は白蘭に心の中で感謝した。が、さて亭の中へ落ち着いてしまふと コレといって切り出す話しの糸口が見つからなかった。さて、何から切り出してよいか見当がつかない。恥ずかしさと嬉しさでおどおどするばかりであった。

 劉は接待役であることを責任的に自覚して、やっと口を切った。
 「お嬢様は、さっきの芝居をご覧になりましたか」
 「えヽ、拝見いたしました」
 「まずいやうですね」
 「あの楊貴妃を演じた方は、何と云ふ役者ですの」
 「青瓊揚といって北京に永らくゐたものです。あれは一寸見られますけれど、外はだめですね」
 「高斐がよかったわ」
 白蘭の横槍に皆は吹き出してしまった。
 「まぁ、お饒舌りさん!」

 聖姫はたしなめるやうに、軽く睨むまねをした。ながいまつ毛、格好のいい鼻と豊かな頬と、絵のやうな唇、初めて見た聖姫の横顔の美しさに劉は恍惚となってただみとれていた。

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