Classic story 古今小説 .

    
(12)雀戯 3


(七)

 競技の日はほのぼのと明けた。しんみり落ちついた小春日和の朝、露冷たく、人々の魂は執念深そうに目を見開いた。

 競技は午前十時から司令部營舎内の本心殿で開かれた。東軍の劉浩、南軍の興正章、西軍の端有餘、北軍の杜安仁の四選手は觀衆の大拍手裡に入場して定めの席に着いた。

 曾ってみない緊張裡に、まづ運命の骰が一擲された。その結果、西軍、東軍、南軍、北軍の順に席が決まり、西軍の荘家が決まった。勝負は午前に四圏、午後に四圏、都合八圏である。各軍から選ばれた監督四名は四隅に立ち、記録係に命は正面に控へ、審判員二名は一段高所に陣取り、準備はすっかり整った。

 競技開始の鐘が沈痛に響くと四周の雛壇にぎっしり詰まっている觀衆から雷のような拍手が起こった。南西二軍は命こそ賭けてゐないが、他のすべての緊張に引きずられ、また自分たちの勝敗が東北二軍に直接の関係があるので同じやうに堅くなるのであった。

 かうしていよいよ競技は始められたが、あまり堅くなったせいであらう。三翻以上のあがりは一度もなく、僅かに二翻が二度、一翻が三度あったきりで、競技としては決して面白いものではなかった。しかしたった一點の差でも、勝ちは勝ち、負けは負けなので、あがる點數は少なくても選手の緊張や觀衆の一喜一憂は息苦しいばかりであった。

 平凡無為なゲームのうち、北軍がやゝ恵まれてめぐりがよく、二翻一度、一翻二度して優性を示した。天地の崩るゝやうな不安で待たれたこの競技も、午前の四圏は造作もなく終わって呆氣けなく感ぜられた。結果は北軍が二百二十、西軍が八十の勝ち、南軍が四十、東軍が二百六十の負けとなった。

 吉報を得た北王は、怒濤の如く狂気歡呼しながら杜選手をかついで歸ってくるわが軍を、營門まで出迎へた。王を見て、同軍は更に歡聲をあげ、潮の如く營庭に流れ込み、杜をかつぎながらわっし ょわっしょと堂々廻りを始め、帽子を投げるもの、感極まって泣くものもあり、文字通り手の舞ひ足の踏むところを知らない有様である。このさまを眺めていた王の目からも熱い涙が二、三滴こぼれ落ちた。

 午休みの北軍軍營は、歡呼狂気のため崩れるやうに賑やかであった。杜選手は世の中の幸福が自分一人にかかってきたやうに昂奮し、降るやうな握手を一々力を込めて握り返した。その力には、南京一の美人はもう俺のもんだぞと、取り引きの決まった手打ちの意味が含まれてゐた。

 自分の周囲にどよめく歡びの人息でぽっとのぼせた頭の中に、聖姫の人なつっこい明るい瞳、ふくよかな頬、薄い上品な唇などが交わる交わる閃いた。北王との約束といふ縁の絲が二人のからだに結びかけられ、杜は、そのぴんと張った手應へを十分愉快に感覚した。一切の人が知らないその感覚を、ひそかに體驗する快よさは、天王、東王も、ものゝの數ではなかった。

 歡びに満ちた午餐の内宴が開かれた。その食卓には北王を首め、重だった武將、文官、それに競技の監督や附添などの顔がそろって、談笑湧くようであった。目をぎろりと光らし、乗り出すやうにして、杜に午後のゲームを注意する北王の顔も歡びに燃へていた。一抹の心のさびしさ。杜は心のどこかに空虚を感じた。しかし聖姫は只きまり惡さに列席しないものだと思って自ら慰めた。

 敗戦を聞いた東王は、一寸苦笑したきり、氣にもとめないで相變わらず將棋に夢中であった。劉選手も自分の室に寝ころんで鼻唄などうたってゐた。厨では、いつものやうに厨夫どもが大晩餐の用意をするとはなしにして、物干し場には一ぱい洗濯ものが飜り、養鶏場には鶏が聲張り上げてのどかにないてゐた。どこにも負けた淋しさは見られなかった。

(八)

 午後二時から、あと四圏の勝負が始まった。城内は北軍が勝ったといふので、割れるやうな騒ぎである。見物は雲のやうに押しかけたが、その六・七分は入り得ないで營門から殿のぐるりに群がった。

 聖姫は父王に命ぜられ、父王の名代格で澤山の侍従侍女に護られ、見物に行かせられた。雛壇の中央に陣取った彼女は、太洋から出る旭日のやうに輝かしく見られた。群星の光りはおのずと薄れて、日のとどく限り、群衆の目が矢のやうに彼女の面上を射た。杜は満身の喜悦に顔がぼっとなった。席は、南軍、東軍、北軍、西軍の順で、南軍の荘家でゲームに入った。緊張した拍手が割れるやうに起こった。

 その第一局に東軍の劉選手は、白と南の自家風と嶺上開花とで雑作もなく三翻した。あまり呆氣なくあがったので他の選手も見物もとぼけてしまった。劉は一挙にして三百を得、午前の負けを忽ち取り返した上、なほ四十の勝ちとなった。

 東軍の怒濤のやうな拍手と北軍の憂鬱な沈黙とが、静かであった午前の空氣をすっかり険悪化した。劉選手はその次に荘家となって二翻し、百八十点を収めて勝敗を逆転したので、場内外は大變な動揺である。杜選手はやっきとなった。そしてその次に、自分もまた二翻した。ゲームは思ひっきり荒れ出した。

 さうして進んでいって、南が終わるまでに、東軍は三百五十の勝ち、北軍は百八十の敗けとなり、勝敗は全く逆転の形勢を示した。
 形勢不利と見て、杜は蒼くなって慌て出した。西廻りで劉が荘家の時、杜は發と自家風の南をポンし、あとは白二枚が麻雀頭で、一四索のあがりとなった。大役を作らねば取り返す見込みがないと思ったので、次に二索をつかんできたとき三索を捨て、白と二索の雙ポン和とした。ところが西軍の端がすぐに一索を捨て、南軍の興が又一索を捨てて、あがる機会を二度も逸してしまった。

 次に劉は白の単擒を自摸してあがり、杜はせっかくの好機を逸した上、却って荘家の劉に二十点とられた。杜は牌を卓に叩きつけ、顔を真っ赤にしてやけ出した。
 折角一翻三翻ができかかったと思ふと人に上がられ、一四七万の平和といふ、たやすいのがあがれないで人に大きなのを食ふ。捨てた牌をすぐつかんできたり、大丈夫要らぬと思って捨てたのが下家に吃されたり、することなすことが全て手違いとなり、どうしてもあがれない。それに引きかへ、劉の方は勿体ないほど順調に進み、あがりさうもない牌がすぐに揃ってしまふ。

 杜はすっかり落ち着きを失ひ、逆せあがってしまってヘマばかりやる。牌を取り落としたり、圏を壊したり、点數を間違えたりするのはまだしも、大選手にあるまじき風の思ひ違ひをして、人の風を一生懸命抱き込んで、物笑ひの種を作るなど醜態百出し、今まで同情してゐた観衆も侮辱の冷笑さへ浮かべるやうになった。
(九)

北廻りで杜が荘家のとき、その持ち牌は、

一萬二萬八萬九萬一筒一筒七索七索東東發發發

という揃ったものであった。荘家で両翻すれば、今までの負けが忽ち勝ちとなる。杜は、わななく胸を密かに抑へ、牌と聖姫の方を七分三分に見分けゲームをすすめて行ったが、幸運にも次に一萬 をつかんできたので二萬 を捨てた。そして興の捨てた一萬 をポンして九萬 を捨て、端の捨てた發 を槓し、次に東 をポンして八萬 を捨てたので、一筒七索 の双ポン聴となった。まだ三廻りしか進んでいないので、十中八九、勝ちは杜のものであると思われた。

 ところが四廻り目にも待ち牌が出ず、五廻りのときも影さへ見せない。六廻り七廻りと進むうちに、他の選手もテンしてしまった。 さァ大変と慌てだした杜は、自分の順番が来て井圏から取る時、一寸変な手附きをしたかにみえたが、その牌をポンと卓上に叩きつけた。それは一筒 であった。

 「あがった」と叫ぶと同時に観衆はわッと行って総立ちになった。三翻牌である。北軍の拍手が雷のように起こった。と、その瞬間、「待てッ」と監督の一人は一同を制し、「いまのは牌の順序が違っているっ。杜選手は違法だっ」と怒鳴った。満場は急に鳴りを静めた。

 調べてみると上家の劉が井圏をめくる時、誤って次の牌を取り落とした。それは九筒一筒であった。順々に取れば杜には九筒が来る。功を急いだ杜は、ここで千番に一番のかね合ひの奥の手を出したのだが、杜自身が落ち着きを失って失っていた上、緊張しきったゲームのことで、監督の目は特に光っていた。

 しかし図々しい杜は、「間違ったかな」といって一筒 を元へ戻し、改めて九筒 を引っ張ってきたが、勿論 不要牌なのでやけに卓子に叩きつけた。牌は飛んで劉の顔に当たった。皮が少し破れ、針の先で突いたような血が滲み出た。満場は急に石のやうに沈黙した。杜は知らぬ顔して自分の牌を見つめている。

「おい」
劉はその血を指で撫でて見て、杜に呼びかけた。
「おい、杜君」
 杜はやっと顔をあげた。劉は自分の疵を指した。
「どうかしたのか」
劉はかっと睨み付けた。
「貴様は故意にしたんだな」
「けがだよ」
「けがだよ、で済むか」
「済まなきゃあ、どうすればいいんだ」
「ナニッ」

 劉は凄い剣幕で詰め寄ったが、審判や監督などの仲裁で、その場はそれで納まり、その投げつけられた九筒で端がアガッてしまった。ゲームが終わると、観衆は嵐の前の静けさを恐れるやうに、すごすごと競技場を出た。
(十)

北軍はつひに破れた。王の失望、杜の悔恨、闇のやうな憂鬱が隅々まではびこって、この夜の北軍は沈痛そのものであった。この荒涼たる感情の中には、溌剌たる心を抱いて、密かに微笑む一人の若い女が居た。

 父王のうち萎れたあはれな姿を見れば、自分も悲しくなって涙のにじみ出るのを覚へはするが、杜のもとへ人身御供に行かないですむ嬉しさを考へると、胸が春のやうに開ける思ひがした。

 父が自分に相談もしないであんな約束を勝手に決めたかと思へば、父が怨めしかった。自分の政治上の不遇なり感情の不興を報復するために、自分を犠牲にしようとした父の思ひやりのない仕打ちがつくづく情けなかった。が、辛うじて勝負がついてみれば、父を怨む心は消えてしまって、その後から新たな感情、まだ経験したことのない羞恥が芽生へてくるのがどうしようもなかった。

 こんな秘密の感情を大事にしまっておくことが、罪悪のやうに感じられた。聖姫の空想はともすると競技場に走る。あの観衆の真ん中で拍手を浴びながら少しも取り乱さない悠々たる態度、きりっとしまった口元、真っ直ぐな鼻、濃い眉、男らしい顔つき、それでいて慈愛に満ちた眼つき、負けても勝っても落ち着いた態度―、あヽ、何という頼もしい青年であらう。あんな人こそ、意志は石のやうに堅く、情操は花のやうに美しいのに違ひない。

 女の前では大言壮語して、いざちなれば慌てふためく杜安仁などとは、其の人物が比較にならない。なんといふ男らしい青年だらう。それが敵の選手であることが、なんとまた皮肉なんだらう。いや敵ではない。杜には敵かも知れないが、自分には敵でも味方でもない。同じ太平天国人民の一人ではないか。劉浩!、劉浩!

 その日から聖姫の胸に密かに生まれた新しい感情の芽は、日を経るにつれて次第に大きくなり、葉を広げていった。摘み取らうとしても、その力強い新芽の力はぞくぞくと枝葉を出し、無理に抑へると胸が苦しくなる。伸び放題に任せるより外はなかった。

 競技に敗れた杜は、面目なげに自室に閉じこもって慄へていた。命がけに変を取らうとした事の悔恨で心が一杯であった。命が惜しい。恋なんかは、今はどうでもいい。命さへあればいいんだ。馬鹿なことをした。あまり血気に逸りすぎた。何とかして命だけは助からないものか。劉の足下に伏して、その爪先でも嘗めたら許してくれるかしら。一つ東王に泣きついてみようか。どんなことでも、厠掃除でも何でもするから命だけは助けてくれって。ほんとに命一つでいいんだ。外にはもう何もいらない―。

 夜もおちおち眠らないで煩悶懊悩に日を送る。戸の音にも、東軍よりの通牒ではないかとハッとする。夜中の風にもすぐ目が覚める。立った二、三日の蟄居で、杜はげっそり痩せ、顔色は死人のやうに蒼白くなった。

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