「雀戯」と書いて「マージャン」と読ませる。昭和2年1月より7月に渡り、週刊朝日に連載された。
日本最初の麻雀小説は村松梢風の「魔都・賭博館の娘」である。しかし「魔都」は疑いもなく麻雀小説であるが、短編である上に具体的な麻雀シーンが一カ所もない。またT14に刊行された「菊池寛『第二の接吻』T14・日本文芸社」には、文中にそれなりの麻雀シーンが登場するが、麻雀そのものが主題ではない。その意味でこの中編は本邦初の本格的麻雀小説である。また作品の完成度、歴史性、面白さとも抜群で、麻雀小説の記念碑的な作品といえる。
「雀戯」は池田桃川(いけだとうせん)38歳の時の作品。作品の背景となっている太平天国の乱は、これをきっかけに清朝が滅び始めたという清朝末期の反乱でAD1851からAD1864年まで14年続いた。
麻雀小説であるから麻雀シーンが登場するのは当然であるが、実際の歴史でも「麻雀はこの太平天国の乱の時代に、馬吊、骨牌などさまざまなゲームが取捨融合し、骨牌ゲームとして形をなしてきた」というのが定説となっている。ただ史実的には、この小説にあるような道具建てやルールが、この時代にここまで形が整っていたのか、という点については問題がある。しかしそれはあくまで小説ということで。
以前に、古代中国を舞台にしたコミックで、登場人物が「リーチ一発、裏ドラばんばん」とやっていたり、「世界不思議発見」というテレビ番組で、平安時代、阿部晴明などの陰陽師(おんみょうじ)が、麻雀をしながら占いをしていたというシーンを見たことがある。このとき、(おひ、平安時代には、中国にだって麻雀はなかったぞ)と思った。(笑)それに比べりゃ、少々のルールの違いなど目じゃない。( ̄^ ̄)。
本作品に登場する首領の洪秀全(こうしゅうぜん)を初め、東王、北王や敵方の大将である曾国藩(そうこくはん)などはすべて実在の人物。もちろん主人公の劉浩(りゅうこう)や、ヒロインの聖姫などは架空の人物である。なお挿し絵は樋口富麿氏
である。
※文中にある●●は、判読不能な箇所。
(一)
洪秀全が南京に太平天國の都を築めてから、早くも五年は経った。厳しかった定幇規条十要も、歳月の経つにつれ、安逸の夢に心緩んだんだ人々にはおのづと顧みられなくなり、風紀は秋の木の葉のごとく亂れていった。
堅く禁ぜられてゐた賭博も流行れば阿片館に出入りするものも多く、秦匯の劃坊は日夜絃歌をうかべ、脂粉を漂はせてあたり一帯をなまめかしく彩り、●●行詔書の面目もとうゝゝ潰れる時が来た。
が、もともとこの黨軍が廣東、湖北、湖南、安徽、江蘇辺りの各地から黨勢に●附して集まった烏合の衆であってみれば、かうした享楽の放縦生活に陷るのも或は當然の成り行であったかも知れない。
その宮廷生活の一つとして麻雀が大變流行った。清朝との戦ひは、長江一帯から安徽の北方邊で年中殆ど暇はなかったが、都はさすがに泰平で戦●に酔ふた人々はつかの間の享楽に狂い興じた。すぐに●るゝ牡丹のはかない●●の●で、その日その日を酒色に溺れる様はあはれでもあった。麻雀は、そのころもっとも多くの人々に弄ばれた遊戯賭博であった。
太平天國人民の●として人民は●●●●●を一定の額以上に私有する事を禁ぜられ、一種の共産主義が實施せられてゐたが、軍律みだれ風紀紊亂するに及んでその揮道も滅茶滅茶になり、享楽費として貨殖の道を講ぜぬものはなかった。
勤倹勉励の道徳を説いた天王・洪秀全も、この天京(當時、南京を天京とも呼んだ)に落ちついてからは深宮に美女を擁してやに下がる始末に、政令の行はれようはずもなく、諸王を首め、士卒に至るまで節制を忘れ、酒、肉、賭博など、享楽生活の極端な発露が、天京の空気を全く糜爛せしめてしまった。
もちろん麻雀にも金がかけられ、大きいのは何千何萬の取引きが一勝負になされる時もあり、そのため家を潰し路頭に迷ふ者さへあるようになった。軍事の余暇に遊戯として始められた麻雀が立派な賭博となり、果ては一生の命運をその一擲に決するといふ位まで、大袈裟に凝り固まる者も続出したが、なほそれでもあきたらなかったものか、誰が何時いひ出したものともなく各舎室から選手を出して競技し、金以外にゲームそのものゝ結果を競合ひ出した。
選手競技に勝った舎室では澤山の賞金をつかんで、戦勝の祝賀に酔ひ興じた。この選手競技は忽ち各營舎に傳はり、おのおの對手を求め、日を定めて勝負に熱中した。さうして麻雀の流行は今はまったく普遍的になり、その營舎でもポンポンの聲を聞かぬ日はなく、従って良い選手も現れるやうになった。
この流行は、遂に東西南北四大軍勢の選手競技會を誘發するに至った。そのころ黨軍は男館五軍、女館八軍に分かれ、總數二十四、五萬の將卒がゐたが、それは四軍の王に統べられてゐた。男女館から選出される大選手は東西南北各軍の代表選手として一軍の責任を負ひ、榮譽を荷って出場するのであった。
さすがに一粒選りの大選手だけあって、驅引きの巧妙さ、手練の鮮かさ、見たやうに敵の手中の牌を讀む頭の働き、大役をあがらせない手際など見てゐても氣持よいほど面白く戰ふさまに、觀衆はうっとりさせられ勝ちであった。
この選手權競技會が始まって以来、東軍は連戰連捷してまだ一度も敗れたことがなかった。他の三軍はやっきとなって新手の選手を取り代え引き代え出すけれども、みんな東軍の大選手、劉浩のため惨めな負け方をしてすごすごと引き下がるのであった。毎月十五日の夜、東軍の各營舎には戰勝祝賀の灯あかあかとともり、●●の美妓と共に踊り狂ふ歡喜の宴が夜を徹して続けられた。
(二)
そのころのある日、酒を飲みながら將棋をさしてゐた東王・揚秀清のもとへ侍従が慌たゞしく驅け込んできた。その氣配に振り返った東王は、險しい目付でその足音を抑へた。
「大變でございます」
「大變?」
「只今北軍の麻雀選手、杜安仁と申す者から當方の劉浩へ向け、この十五日の競技會において、お互ひの命を賭けた勝負をしたいから、熟考の上、明後日までに否應の返答を煩はしたいといふ、掛合の使者がまゐってございます」
「雀戯に命を賭けるといふのか」
「勝った方が負けた者の體を自由にするといふのだそうでございます」
「ほう!」
東王の顔面が刹那的に緊張した。がそれは稲妻のやうにすぐ消えて、いつもの柔和な相となった。と突然、「あはゝゝゝ」と崩るゝやうに笑って、
「さァ、今度は俺の番だ」と元氣よくいって盤面に向かった。侍従も將棋の對手をしてゐた副官も、度膽をぬかれてぼんやり東王を見つめた。
東王はパチリと駒を動かして、
「さァ、これで敵將はいよゝゝ窮地に陷ったぞ」と頻りに盤面に見入ってゐる。侍従は恐る々々、
「でございますか、その返答は何といたしたものでございませう」
「返答か・・・、オイ、その大將はもう駄目だよ。こんなに追い込められてもまだ戰ふといふのかい。士卒をふびんと思はんか」
「その返答は何と致しませう」 「返答はと・・・。さア、これで手も足も出まい・・・。おやおやまだそんな駒があったのか。眞正面から突っ掛かって来るとは大膽至極ぢやのう。こい つも命がけか。あはゝゝゝ」
「あのウー」
「分かった、返答は、承知しましたといってやれ」
「へ?、承知?」
「そしてお前は劉浩に、すぐこゝへ來るやうにいってくれ」
侍従がとぼけて出ていってから、十分ばかりして劉浩が心持ち青い顔をしてやって來た。
「とうとう討ち死にしたな。腕前が段違ひだ。だがお前は見込みがある。もう一番こい」
東王はコマを並べながら劉の方へは見向きもせず、
「劉、お前知ってるだらう、命がけの一件を・・・。やれ、やってくれ。勝ったら北王の娘をくれてやるからしっかりやれよ。ーーさあ來い、今度負けたら拳固だぞ」
またも盤面に見入った。
「北王の娘といひますと、あの聖姫様ですか」
「さうだ」
「あれを私に下さいます?」
「さうだ」
「私が勝ってどうして北王のお嬢様が・・・」
「さういふ事になるんだ。お前達では北王の心持ちも事件の成行きも分からない。俺にはちゃんと先の先まで何もかも見え透いてるんだ。一切萬事俺に任しておけ。お前は勝ちさえすればいゝんだ」
「負けましたら?」
「馬鹿ッ!」
「でも勝負は時の運ですから」
「馬鹿ッ、聖姫は南京一の美人だぞ」
「・・・・・・」
「あんな美人がたゞで手に入ると思ってるのか」
「はッ、いや、わかりました」
「分かったか、しっかりやれ」
「はい」
「おまえは仕合わせ者だ」
劉が出て行くと、東王は今迄の事はけろりと忘れたかのやうに將棋にむちうであった。
(三)
競技の日が近づくにつれ、城内は沸き返るやうな騒ぎである。東軍の横暴に辟易してゐる市民たちは、北軍選手、杜安仁の勝利を祈り、劉浩の惨敗を願ぬものはなかった。
中には寺や廟へ参詣して祈願する女達もあった。十中八九老練な劉を負かす望みはないと信じながらも、一縷の望みにから元気をつけて杜の勝利を宣傳するうつろ心が人も我もさみしかった。
さうした息苦しい陰惨な空気のどよめきのうちに、競技は愈明日に迫った。東軍ではいつもの競技會の時と大して變わった様子もなく、東王は相變わらず腹心どもを呼び集め、美しい女を侍らして酒宴を開き、赤ら顔をてらてらと光らせ、談論風發して明日の命がけの競技も忘れてしまったようであった。全營舎の將卒達も寝そべって無駄話をしたり、博奕をしたりして至極呑氣に見えた。
その夜も更けて一時ごろ、何となく寝苦しさに、馮懐臣が起きて風を入れようとして隣室からもれるうすい光が、ふと目についた。
〈あゝ、劉の奴、まだ起きてるな。今ごろまで何してやがるんだらう〉
さう思ふと馮は無意識に自分の室を出て、劉の室をたづねた。コツコツと二三度戸を叩いてみたが返事がない。不思議に思って戸を押して入ってみた。と、そこには劉が机に両肘をつき、頭を支へて心から考へこんでいる。馮はそこに突っ立ったまま聲をかけた。
「おい」
劉は黙って静かに顔を上げた。その顔色は蒼味をおびてゐた。
「おい」
馮はつかつかと歩み寄った。
「どうしたんだ」
それには答もしないで又うつむく劉の何となくしほれた姿をしばらくぢっと見入ってゐた馮は、何か思ひ當ったように急に聲を落とし、
「おい、劉君、大丈夫だ。心配せんでいい。きっと勝つ。お前があんな青二才に負けないことはこの俺が知っている。おい、大丈夫だぞ、安心せい。對手は新米のおっちょこちょいだ。負けるもんか。考へるのは止して早く寝ろ。おい、こら」といって軽く背中を叩いた。
そして
「毎晩よく寝る俺が今夜に限って寝つかれない。起きて窓をあけてみるとお前ンとこの灯火が見えるじゃらう。何してるかと氣になって見に来たんじゃが・・・・。ツイ二時間程前、宴会から分かれる時は、いつもの様子とちっとも違ってなかったお前が、何をさう急に考へ出して塞ぎ込んだのだ。あれほど笑ってしゃべってゐたお前のその萎れかたは何だ・・・・。うむ、口では平氣さうなことをいってゝも、やっぱり心配になるんぢゃな。それならさうと、なぜこの俺だけにはいはんか。俺に黙っとるといふ法はないぞ。おい、こら、劉、何とかいへ」
馮の目には、熱い涙がたまった。劉はやっと顔を上げた。
「馮君、僕は君の友情を感謝する。僕は君も知ってる通り麻雀には自信がある。どんな大敵が来ても、勝たうと思へばどんな事をしてゝも勝つだけの技量が授けられてある」
「そんならいゝぢゃないか。何も心配するこたァあるまい」
「ない位なら心配はしない」
「勝っても心配があるのか」
劉はぢっと灯火の焔を見つめた。その眼は理智の明るさが水のやうに澄んでいた。
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