池田桃川(いけだ とうせん)、本名は池田信夫。
職業・文筆家。小説家というより、今でいうライター。上海に在住し、紀行文をはじめ、短編小説等を著す。
明治21年(1889)、熊本生まれ。
大正11年、読売新聞の上海特派員時代に、上海日本堂より「支那香艶叢書」シリーズ(第一巻・支那宮廷秘録、第二巻・西施、第三巻・支那性的小説、第四巻・西太后(前編)、第五巻・西太后(後編)、第六巻・王昭君)、大正12年、「江南の名勝史跡」(33才)、「上海百話」、「続上海百話」等を刊行。
大正12年11月の関東大震災のあと、銀座にあったカフェープランタンが牛込神楽坂に移転、そこで仮営業した。そのプランタンを舞台に、文士連に麻雀が流行した。
大正14年、池田桃川は文藝春秋(4月号)誌上に、麻雀小話というコラムを掲載。その中で文士連の麻雀を「支那人にくらべたら、大したことないだろう〜いずれ上京のおりには一手指南してあげよう」と揶揄した。
それを見て、のちの日本麻雀連盟重鎮となった佐々木茂索(ささきもさく)は、すぐに挑戦状を叩きつけた。また久米正雄(のちに第2代日本麻雀連盟総裁)も、翌年、同じ文藝春秋に「いつでもお相手しよう」と反論を書いたが、結局、対戦は実現しなかった
それは単なるエピソードで、麻雀の殿堂入りの対象とはならない。
昭和2年(37才)、麻雀文学としての記念碑的作品、「雀戯(マージャン)(S2/1〜S2/7・週刊朝日連載)」を著した。
雀戯は本邦の麻雀小説としては村松梢風の「魔都」に続く2作品目。しかし「魔都」が短編であるのに対し、本格的中編小説。そして中国麻雀揺籃期である太平天国の乱を舞台にしていて興味深い。またイラストも優れ、内容もそれなりのレベルにある。
このエポックメーキングな作品一つで、麻雀の殿堂入りとなった。
昭和11年(1935)、没。享年46歳。。
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