Aphorism 箴言 

    (3)麻雀段位論


 昭和4年、日本麻雀聯盟が結成され、段位を発行することになった。それに対し賛否両論があった。麻雀段位論は、そのとき日雀聯の段位詮衡委員長であった久米正雄氏が、段位賛成の立場から文芸春秋誌上に発表した一文。現在においても通用する名文である。※長文なので、一部のみ掲載。


 麻雀に段位を発行することが、たびたび議論せられる。私は段位詮衡委員長の立場から、自然に肯定している居る通り、段位はあっても差し支えないと考えている。あって差し支えないのみならず、あったほうが奨励になるなら、遊戯としての麻雀の立場からは必要でさへあると考える。

 然からば、汝の段位に対する標準は何か、と諸君は問うであろう。或いは運十と云い、又は運七技三と云う雀戯に、標準なんぞ在り得べきでない、と開き直らるるであろう。

 問うをやめよ、人生ですら考えやうに依りて運十であり、運七技三である。そして或る者にとっては、技七運三であり、また技十とすら感ぜられる。しかも人生にも自ずからなる標準はある。麻雀もその高下、自ずから生ぜずに居られようか。

 私の見を以ってすれば、凡て一時をマスターするには、自ずからなる古今の標準数がある。それは「千」という度数だ。網打千番と云って、千度打って網は初めて自由に捌かれる。短冊千枚と云って、千枚書いた人にして初めて短冊の字配りは所を得る。

 碁さへ千盤と云って、ザルと然らざるものとの区別は付くという。吾が田の話にしても、原稿千枚にして、作家の素人玄人は自ずから分かれる。

 四圏千盤、初めて牌を知る。勿論己れを知り、朧げに敵の聴牌を知り、場の形勢を知り、人に迷惑をかけず、抑うるべきを抑え、ガメクるべきをガメクる−−これ斯界の初段である。

 が、四圏千回はなかなか容易ではない。1日平均四圏三回として、1年はかかる。それも漫然とやったのでは、千回は1回でしかない。我々が牌歴を重んずる所以は、茲にある。

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