Aphorism 箴言 

    (4)勝敗の彼岸


 このカテゴリーの2番目、「牌技の難」と同じ、川崎備寛先生のコラム。「牌技の難」と同様、昭和30年、名古屋に日雀連本部が開設されたとき、愛知県本部機関誌創刊号に掲載されたもの。


 麻雀も一種の勝負事である以上、敗けるより勝つほうがいいのは言うまでもない。誰だろうと最初から敗けようと思って麻雀をするものがないからだ。が、勝つことだけが麻雀の目的かというと、決してそうではない。

 勝ちといい、敗けというのは結果だけを見ての話であって、勝たなければ楽しくないと思うような麻雀は、ほんとうの麻雀の楽しみを解さない麻雀だ。

 一摸一打、チーポンカンの基本動作に失策をせず、いつも場の空気を万遍なく見通して一局を終了する、その経過の中に麻雀の楽しさと難しさを十分に味わうところに麻雀のダイゴ味があるのだ。

 そうした麻雀は結果において勝っていた場合、敗けるよりもうれしいのはもちろんだが、たとい敗けいても楽しいことに変わりはない。自分の能力を十分に発揮したことに変わりはないからだ。ぼくはいつもそういう麻雀を打ちたいと思う。

 勝つことだけを目標にしている麻雀を見ていると、どことなくコセコセしていて目先のことばかり考え、したがって無理な手を打ち、放銃も多い。たまに成功することがあると、それを自分の伎量のように錯覚して得意になり、失敗すればたちまち愚痴っぽくなる。平素、対局していてよく見る光景だ。

 将棋の加藤(一二三)八段は、いつか、自分はいつも余裕のある敗け方をしたいといっていたが、含蓄のある言葉だと思った。勝負である以上、敗けるより勝つほうがいいのは勿論だが、たとい敗戦に終わったとしても、ゆうゆうと余裕を残して、その一局を十分に打ち終わったよろこびを見出したいというのであろう。

 ことに麻雀は碁や将棋とちがって四人の対局である。一対一の対局であれば、自分の失着は責任ですむが、麻雀では一人の失着がほかの人にまで迷惑を及ぼすことが多い。麻雀では打敗のエチケットが要求される所以である。

 勝つことだけが目的の麻雀に牌品がおろそかになるのも故なしとしない。四人が互いに責任ある打敗をするようになれば、麻雀もいっそう向上するであろう。

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