天野山金剛寺
(あまのさんこんごうじ)

Contents
1.所在地
2.宗派
3.草創・開基
4.その後の変遷
5.特記事項
6.現在の境内
7.南朝 御在所 魔尼院
8.北朝 御在所 観蔵院
9.古寺巡訪MENU
 1.所在地
   大阪府河内長野市天野町996
 2.宗派
   真言宗御室派
 3.草創・開基
寺伝によると天平年間に聖武天皇の勅願により行基が草創したと伝えている。

行基は、周知の通り河内の出身で久米田寺をはじめ和泉でも知識を動員して様々な社会事業を興し、寺院も建立しており、この天野山金剛寺を創建したとしてもあり得ないことではない。そう言う意味で、もし、この寺伝を信じるならば、朝廷が行基集団への弾圧から逆にその集団の力を利用しようと方針転換した天平12年(740)から、行基が平城京の喜光寺で入寂する天平21年(749)までの約9年の間に創建されたこととなる。

しかし、「続日本紀」に記述されている行基建立四十九寺に、天野山金剛寺は該当しない。

同様の事例として貝塚市にある水間寺の事例があるが、聖武天皇の時代は仏教が最も興隆した時代である。そうした時代背景を考えれば、この地の土着豪族が氏寺として建立したのではないかとも推定される。だが、いずれも確証がない。しかし、少なくとも何らかの寺院が奈良時代から存在していたのは事実で有ろう。
  ※ 僧・行基の詳細は、 行 基  のページに記述しております。ご覧下さい。

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 4.その後の変遷
当寺の興隆は 、平安末期における高野山の阿観僧正に負うところ大きく、そのスポンサーは阿観僧正に深く帰依した八条院である。平安末期の永万元年(1165)、阿観僧正が当寺の再興を朝廷に奏上し、後白河法皇と皇女八条院が承安元年(1171)金堂・宝塔・御影堂・鐘楼・食堂・中門などを建立し、現在に至っている。

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 5.特記事項
(1)南北朝時代と当寺院
    しかし何といっても当寺で特筆されるのは南北朝時代の以下の出来事である。
  • 正平9年(1354)3月、北朝の三上皇(光厳、光明、崇高)が足利尊氏により当寺に幽閉された。原因は足利尊氏と弟直義の内紛があり、尊氏は 敵対関係にあった南朝方と一旦和睦を申し入れざるを得なかったことによる。
  • こうした情勢を受けて同年10月には南朝の後村上天皇が当寺に来山し、摩尼院を御在所される一方、食堂を正殿として大政を執った。
  • この4年後に足利氏の内紛が収まり、足利尊氏は再び北朝方につく。
  • 結果、北朝の三上皇が京に戻られ、またその2年後に後村上天皇は観心寺に移られたが、4年もの間、敵対関係にあった南北朝が同舟していたこととなり、真に希有な歴史が当寺には刻まれいる。
         <参考>  南朝方の御在所 : 南朝 御在所 魔尼院      北朝方の御在所 : 北朝 御在所 観蔵院
  • なおその後南朝二代の天皇(長慶、後亀山)は、当寺を御在所とされ後村上帝時代を入れ30年間にわたって南朝方の行宮となった。
  • 後村上天皇のその後については「観心寺」のページに記載。
(2)女人高野として有名
当寺院は、女人高野として良く知られている。その基礎を築いたのは後白河法皇と皇女八条院である。
 八条院は当寺の一切の行事を高野山と同様にし、女人が女人禁制の高野山に入山せずとも真言密教の霊場として修養を積むことを可能とした。このことから当寺は女人高野と広く知られるところとなった。
(※注)八条院とは
八条院とは鳥羽天皇の皇女であるワ子内親王である。母は皇后藤原得子で、生涯独身であったが、父母の莫大な遺産を継ぎ平安末期に全国に八条院領と呼ばれる広大な荘園を 領していた。この莫大な財力と鳥羽院の嫡流としての権威をもって隠然たる力を持っていた皇女である。後白河法皇は異母兄にあたり、後白河帝を支えたのも彼女で当寺院は実質上この八条院が創建したといえる古刹である。

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 6.現在の境内
楼門
天野山金剛寺楼門
金堂
天野山金剛寺金堂
創建は不詳。但し、建築様式から鎌倉時代後期の建造物と推定されている。また建築部材に慶長10年(1605)修理の銘文が残されている(重要文化財)   治承元年(1171)建立。慶長年間に大修理で改造された。
本尊は木造大日如来坐像。脇侍を木造降三世明王坐像・木造不動明王坐像。(3体とも重要文化財) 
     
食堂・天野殿
天野山金剛寺食正殿(食堂)
  御影堂・観月亭
天野山金剛寺御影堂・観月亭

 創建は鎌倉時代。後村上天皇が正平9年(1354)-同14年(1359)まで正殿として執務した。

 

御影堂の創建は平安時代。 後村上天皇御在所時代に観月亭が東側に突き出す形で付け加えられた。
     

多宝塔
天野山金剛寺多宝塔

光厳天皇陵
光厳天皇陵

↑光厳天皇
 北朝の初代天皇である。1352年2月、足利氏の内紛によって勢力を盛り返した南朝軍の京都奪回の時に、光明・崇光両上皇とともに拉致され、この天野山金剛寺で南朝方の軟禁下に置かれた。1357年2月に、帰京されたが禅宗に深く帰依され、世俗を断って、常照皇寺(京都府京都市右京区京北井戸町)で禅僧とし精進され、1364年7月、同地で崩御された。そして遺命に依って遺髪が当寺院に送られ、この陵が建立された。

←多宝塔
 創建年代は不詳。しかし鎌倉幕府が開かれる前年の建久2年(1191)に修理を計画した記録が残り、この頃には既に建てられていたと考えられている。
慶長10年(1605)に豊臣秀頼の命により、大規模な修理が行われている。(重要文化財)

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 7.南朝 御在所 魔尼院

 足利氏の内紛よって勢力を盛り返した南朝の後村上天皇は、1354年10月、当寺院子院魔尼院を御在所とされ来山された。以降、この魔尼院は、長慶・後亀山天皇と続く、約30年の間、南朝方の行宮となった。
 

摩尼院へ通じる路
天野山金剛寺魔尼院
摩尼院の御門
天野山金剛寺魔尼院門
     
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 8.北朝 御在所 観蔵院
  1352年2月、足利氏の内紛によって勢力を盛り返した南朝軍の京都奪回の時に、光厳・光明・崇光上皇は拉致され、大和賀名生(奈良県五條市)を経て、1354年3月この天野山金剛寺で南朝方の軟禁下に置かれた。1357年2月に、帰京されたが、この4年の間、本坊・観蔵院客殿が三上皇の御在所となった。
天野山金剛寺本坊・観蔵院 門   天野山金剛寺本坊・観蔵院 客殿 
天野山金剛寺 本坊観蔵院・門   天野山金剛寺 観蔵院客殿
     
観蔵院庭園@    観蔵院庭園A 
天野山金剛寺 観蔵院庭園   天野山金剛寺 観蔵院庭園
この庭園は、室町時代につくられ、桃山時代に蜂須賀政公、江戸時代に庭師雪舟流家元・谷千柳によって改装されたいう。
(当寺院パンフレットによる)
     
御在所への渡り廊下    渡り廊下から見た庭園 
天野山金剛寺 北朝御在所 渡り廊下   天野山金剛寺 観蔵院庭園
本坊から御座所建物への渡り廊下の中頃にベンチが作り付けられている。ここに座ると庭園が一幅の絵画の如く広がる。   
     
北朝御座所前の廊下   戸襖絵 
天野山金剛寺 観蔵院 北朝 御在所前廊下    天野山金剛寺 北朝御在所内 戸襖絵
渡り廊下から御座所建物に入ると玉座の間の前の長い畳廊下がある。その突き当たりにある板戸にはこのような絵が描かれていた。子猫の愛らしい姿が何とも心和ませてくれる。果たしてこれが幽閉中の三上皇の時代に在ったのかどうかわからないが、ご三方の心情を察すれば是非とも在ったと思いたい。
     
 中世末頃の天野山金剛寺を描いた鳥瞰図   北朝御座所
天野山金剛寺 北朝 御在所内鳥瞰図   天野山金剛寺 北朝御在所
床の間の掛け軸は重要文化財に指定されている。鎌倉時代初期の当寺院の様子を鳥瞰図で描かれている。これから70以上の子院があったことが見て取れるという。 見学位置からの距離が遠く詳細が見れないのは残念だ。   先程の廊下から見た玉座を撮影した。玉座の前には座敷が二つあり、襖には金色の菊のご紋が描かれ、格式の高さを感じさせる。だが天井は意外に低く、座敷も狭い。最高位の貴人の玉座とはとても思えない。やはり幽閉故であろう。 
     
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 9.古寺巡訪MENU
 
 
 <更新履歴>2016/01補記改訂 2020/11補記改訂
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